生贄合評スレ[36]
2004 11/09 17:08
佐々宝砂

じゃあ、なんとなく、なにげなくてけとーにやります。放置プレイ好きなんだけど(w

まず目をひいたのは改行の工夫です。普通なら行末に置く助詞(「が」とか「て」とか)を行頭にもってゆくことによって、読者をいちいち立ち止まらせる。うざったいといえばうざったいし好みは別れるかもしれないけれど、私は好きです。流れるように読んではいけないのだ、もっと立ち止まりながら読め、と読者に示している改行ではないかと思います。

次にあれっと思うのは、一人称が「おれ」であること。作者が女性で、オトコっぽい詩を書く場合、「ぼく」「僕」を一人称に選ぶことが多いように思われます(私個人は「俺」も「僕」も使います)。この詩の一人称は、なんで「おれ」なのか。「俺」とか「ボク」ではいけないのか。やっぱり、いけないように思います。全然関係ないですが、私は自分を「おれ」「俺」と呼ぶ男が好きです。「ぼく」なんて、あなた、字面からして「しもべ」じゃあないですか。この詩の一人称が「おれ」であって「僕」ではいけないその理由のひとつは、この詩の語り手が自律した人間であるからのように思います。で、しかもタイトルが「塔」なわけでして、フロイトさん的な読み方をしてもユングさん的な読み方をしても、「塔」が示すものはずばりあれですね、男性器。ないし、萩原朔太郎の言葉「詩は、日常に対し垂直に屹立する。」を思い出させます。

「おれだけならば」塔にゆくことが可能、なのかもしれないけれど、「おまえ」がいます。おまえは「塔」にゆくことをとめているようです。「アルミを噛む響き」は、お互いに傷付け合っている関係を私に思い起こさせます。「おまえ」は、「おれ」の「ふやけたゆび」にレンズをはめることすらします。そのレンズが、まるで、手錠のようなステディ・リングでもあるかのように。そして空は傷にも耐え、おそらくは塔すらも飲み込みます。

かほどにオトコっぽい詩なのですが、私は、この詩を去勢の詩と読みました。悲しくて痛い詩なのかもしれないけれども、決意を秘めた詩であるようにも思いました。ぶっちゃけ言えば、「けだもの」よりずっと好きです。
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