生贄合評スレ[282]
2008 11/15 13:40
白井明大

はじめまして。
どのような詩を書いてらっしゃる方なのだろうと思い、これまでの投稿作品を拝見しました。

ことばが跳ねているような、そうした元気さを持ちながら、出てきたことばに引き出されるように新たなことばが生まれ、それらが次々湧いてきて、イメージが積み重なっていったり、逆に拡散していったりといった印象を、多くの詩から受け取りました。

投稿された順を追いながら、読後の印象を述べさせていただくなら、まず上記のような印象をもったのが「みそ しる」「くびおしめ」などです。

また「13つぶのカス」「ゆずこしょう」には、作者の異なった面をみるようでした。「みそ しる」などがことばの響きなどに心の躍動感が表されているような印象だったのに対して、「13つぶのカス」「ゆずこしょう」はことばが弾ける代わりに、意味を追いやすく、つまり散文に近いことばの流れだったということと、それゆえ書かれている抒情がただちに解される素直さを持っているということです。そのように感じました。

ことばの元気さと、素直な抒情とのバランスがその後の詩にも表れているように思います。

好きだったのはまず「月曜日の昼間」でした。この詩は素直な抒情をベースとしながら、「越し」というキーワードを軸にして、ことばの、この場合元気さではありませんが、ことばの響きが詩の動きを生み出しているように感じられました。
素直な抒情を表すために、この作者に固有の文体が生きている、といった印象をもちました。素敵な詩だと思いました。

その後も、ことばの元気さ、イメージの飛躍、拡散、展開のおもしろさが表れている詩をみることができましたが、途中である変化に気づきました。その変化に気づかされるのは、「ラブレス」以降でした。
ですがもういちどみてみると、それまでの「バックグラウンド」「つぎはぎ」などにも表れているようにも思えますが、変化を読み取ったのが「ラブレス」でした。

これ以降の詩のなかで「埋まらないタイムカプセル」「パーを出す前のグー」「キリトリ線が点滅」「ストーカーさえできない」「ハンテン」に、それまでと比べてより深いものが詩に込められているように感じられました。
しかも「月曜日の昼間」にみられたものとはまた別の、すなわち抒情を文体によって表現するのではなく、文体じたいが抒情をはらんでいるような、とでもいうような、そうした印象をもちます。

ことばの破綻の度合いがつよい「パーを出す前のグー」「キリトリ線が点滅」などは、ことばあそびや、イメージの拡散という表面にあらわれてくることばの背後に、なにか切迫した内面(あるいは心のアンバランスさ)が感じられます。また「埋まらないタイムカプセル」の「やーらーれーたー/(シャキーン)」という、ひらいたことばが、やや重みを帯びた最終連と対比的で、こちらはイメージの拡散を感じるというよりは、「月曜日の昼間」にやや近いかもしれないけれど、抒情とことばのオーバーラップ(「月曜日の昼間」ではオーバーラップというよりは交錯し展開するという数本の線のような展開を感じましたが、こちらでは乗せて乗せて行く感じ、とでもいうのでしょうか、そうした感じられ方です。曖昧で申し訳ないのですが)を感じました。

そうした変化がいちど表れた後に、さらに「地を蹴る」以降は、ことばと内面のむすびつきが、むしろ遠く離れているように受け取られました。
作者が確立したある手法を用いて、即興的に詩を書いているような、そうした印象です。拡散したイメージを展開しながら、ある特徴として、最終行が意味をつかみやすいことばでしめくくられるというのが「地を蹴る」(「それでも かわす挨拶に不自由がないのです」)、「はなし」(「そんなことを/はなすのです」)、「餅ついているうさぎは餅食われながら観られている」(「排水口へ向かうのだろう」)、「可視光線と嘘」(「僕はそこでみて、いた/きっといまも」だ」)のいずれにもあてはまるように思えました。
これはあるいは、弾けるようなイメージを展開していきながら、作者の抱えている思いは凝縮されている、といった内面の働きによるのかもしれません。あるいは短詩のかたちで表したときに、素直な抒情となって表れる可能性のある内面を、この作者らしいことばの躍動感で、このような詩を生み出しているのかもしれません。

いずれにしても、「ラブレス」以降の変化から、またさらに「地を蹴る」以降、移り変わってきたように把握することもできるのではと思いました。

こうふまえてきて「蜂」を読んだとき、いままでみてきた作者のさまざまな面の、その境界線上に位置する詩であるような、そんな印象を受けました。

◯ことばの躍動的な展開(「みそ しる」)、◯素直な抒情(「13つぶのカス」)、◯抒情を表現することばの展開(「月曜日の昼間」、◯より深いものが詩に込められる(「ラブレス」以降)、◯イメージの躍動と最終行のおさまり(「地を蹴る」以降)

これらのどれにもあてはまるようで、これらのどれ、と一概に言えない、作者の特徴に抑制がかかった詩。それが「蜂」であるように感じられます。

また詩が変わろうとしているのかもしれません。「ラブレス」以降でみせたものがいったんおさまり、また表れようとしているようにも思えます。

これ以降にどのような詩が現れてくるのか、それによって「蜂」の意味が明確になってくる気がします。
この「蜂」という詩は、また大切な位置にくる詩なのかもしれないと思いました。
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