生贄合評スレ[266]
2008 06/14 14:04
れつら

偉そうなことを言うのをご承知ください。

惜しいところだなあ、と思う。
大変センチメンタルな情感が作品全体に漂っていて、
その印象を強く持たせたいのは行分けの仕方などからもわかります。
冒頭で存在していた娘のイメージが、末部で消えているというのが
この詩の持つドラマツルギーですね。
そこにどう飛躍を持たせるかがこの詩がちょっといい詩で終わるか
すごくいい詩になるかの分かれ目のように僕は思います。

さて、存在と不在の問題ですけれども、
この詩は中間部でもそこに触れています。

>だが、
>「世界は奇妙な幻想だよ」って、
>そんな間違った何かを
>卑怯にも口にしてしまう前に
>(いつか私は君にそう言ってしまうだろう)

この部分ですねー
この連の最終行で既に「世界が奇妙な幻想である」と発言すること、
話者≒筆者とみなすのであれば、
不在(奇妙な幻想)の未来を既に話者は持っていて、
そのうえで存在する「君」に語りかけているという、
ある種の循環性を持つ作品構造を示唆しているとも取れます。
というのも、次の連で

>間違っていない場所で、
>間違っていないことを
>一言でいいから
>私は君に言いたくて
>ここに君と来たのだ

ということを書くことで、話者の現在地点が「間違っていない」ということ
つまり「ここ」が確かなものであるということを上手く補強していることですね
この辺は非常に丁寧だし、
単に作品が中空に浮かんだ、ぼんやりしたセンチメンタリズムに
堕してしまわないようにするためにも必要な箇所かと思います。
上手い補強だと思います。


さて問題はこの後だと思うのですが。
どのように「不在」を描写するか、
この点においてはまだ推敲の余地があると思われます。
「存在」が「不在」に移り変わる次の連でも
全体の持つ作品のテンポ感に対して一定の速度を維持していますが、
ここは思いっきり変調があったほうがよいのではないでしょうか。
最後の

>君は遠くで
>咲き始める

という部分で、冒頭の「今にも咲きそうな桜」との
時間的な同期は取れているわけだし、
それを考えても

>君のいない、空の下の
>満開の桜の木の下にいる

という描写は微妙なズレをきたしていて違和感があります。

というわけでケツから2連目がなんか変です。
変えたほうがいいと思います。
というかむしろ、なくってもいいんじゃないかとすら思うくらいです。


ここからは余談といえば余談なんですが、

最後の「君は遠くで/咲き始める」というのが、この詩に時間的なそれだけでなく、
空間的な広がりも与えていることを考えると、
前半部の「娘」から「少女」という呼称の変化による一般化、
これってどこにでもありうる、卒業の風景を喚起するのに大事なんじゃないの
と思うし、やっぱりそうすると
(これまたどこにでもありうる)心象と具象のオーバルコースを
しっかり形作るのは大切だと思うし、
オーバルコースを何度も駆け抜け続けるには
駆動力を生み出すダイナミズムが必要なんじゃないの、
とも私は思うわけです。いかがかしら
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