生贄合評スレ[232]
2007 11/09 23:12
mizu K

携帯アドレスのようですのでPC用に
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=138883

レルンさん、はじめまして。
批評にはあんまり慣れていないのですが、生け贄、ということで。うしし。

 冒頭2行、公園がすでに夕焼けの中に入り込んでいます。公園が「どこまでも続く」というのは本来ありえないことですが、どこまでも続く夕焼けに「なっている」公園ならば、どこまでも続いていける。そのような風景に女の子は溶けこんでいる。いわば彼女の内面は向こう側の夕焼けの世界に行ったままでこちらに帰って来ることができない。向こう側とは、夏休みに象徴されるある種の遊園地のような世界で、ちょっと常套的すぎる比喩かと。
 2連、落ち葉は、「小さな手」とあるのでカエデだと思います。背後で合唱が聞こえる。これは場面としては、小学校の音楽室から聞こえる幼い声、あるいは夕暮れの公園で、かーごめーかーごめーとかやってるイメージ。ぐああ、私のイメージもステロタイプすぎ...。さて女の子はもうその合唱に加わらない。以前加わっていたであろうけれど、もう一緒に歌うことはない。ひとつの成長を暗示するものと思いました。
 3連、はい、わかりきっています、というか使い古されていることばなので、よほど注意深く用いないとただのノスタルジー。
最終連。秋晴れの青い空は、すきっとした感じでしょうか、あるいはレルンさんは北欧がお好きみたいなのでそのへんかな、、研ぎすまされていて言語化できない色と頭上のひろがり、それをひと言で「秋晴れ」と言われてしまうのには抵抗がある。しかしながらそれを忌みきらいながらも将来そのことばを使うであろうという「自分」のことをかなり冷静に予測。
 この予測している、ということに着目したのですが、この予測しているのは誰か?女の子と仮定すると、どうも納得いかない。ええと、状況のただ中に、すなわちここでは女の子が成長する直前の状態で「そこ」にいる場合、将来に起こることなんてよくわからないんですね(私の経験上ですが)。閾値のようにひょいと次の段階に来ていて、後からああそうかと気づくことが多い。あるいは近い将来なにかしらの変化がある予感がしてもその時期を「予測する」というのは、予知能力がない場合不可能。えてして曖昧なものなんです。いわば彼女は夕焼けのある向こう側の世界にとけ込んだままであって成長前の段階にあり、外界が見えない。見えないということは、その外側、彼女がやがて到達するであろう外の世界を明確につかんでいない、はず。しかし、文脈からみるに、将来確実に訪れるであろうことへの冷静な視線がうかがえる。
 「不憫に思う」。この語を使う場面としてはどんなものがあるでしょう。「あの子は父親がアル中で母親もアル中であの子もやっぱりアル中で不憫だ。よよよ」とか「あの子はまだあんなに幼いのに両親を助けるために奉公に出てて不憫だ。よよよ」と、立場上やや上に立っている人が使うことが多いと思います。要するにここにはやや上方からの視線が入り込んでいるのです。
では、その簡単にひと言で「秋晴れ」と片付けられてしまうことを「不憫に」思っているのは誰か?それは女の子ではなくて作者でしょうね(言い切ってしまった)。

 結論として、作中の女の子に仮託して作者に内包されるかすかな成長の萌芽を提示した作品、ではないかと。

#あのー、ちょっとアルコール入っているので、飲み屋でぐるぐるくだまいてる程度に聞いてくださればと。あなかしこ。
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