生贄合評スレ[179]
2006 06/28 21:15
大村 浩一

 私は、文学作品の批評の目的とは、読み手と書き手に、作品への新たな視点、
読み方や価値観を示すことだと考えています。

 そうした批評の基盤となる批評者の哲学には、ある種の一貫性が必要なので
すが、その一貫性とは「あれが無いこれが無い」式の知識量的なしきいの設定
などではなく、新たな表現を求める人間的な力で統合された読解力のほうだと
私は思います。妙な基準なんて、無いほうが良い。

 それとこの作品が「詩」として掲示されなかった作者の理由は様々でしょう
が、私にはこれは散文詩としても、また小説の中の詩的な表現としても受け入
れる事は出来ます。「文章に取り組めた」と作者のコメントにある通り、ジャ
ンルへの意識より、まず詩的な描写の可能性そのものに挑んだトライアルだと
私には思える。そうした作者の姿勢に対する異議は、今回の私にはありません。

 作品じたいの話に入ります。
 花火のようにイメージの像を連発させていく詩なので、その手法に馴れない
人には難しい。私なりにこの詩のストーリーを確認します。間違いあれば御免。
 冒頭から「空気が色づき始め…」と、もののけの出現が始まります。CMの
ように急速に映像が作られていきます。幻想のなかで時計が進みだすのは、現
実より幻想の側に価値を置いた、逆説的で魅力ある表現です。
 2連目。イメージ=光の奔流が押し寄せ、もののけ=彼女が姿を現します。
 3連目、彼女の像が鮮明になるなかで、今度は幻を見ているはずの主人公の
ほうがあやふやになります。「僕だけが歪む」二度目の逆説的表現です。
 4連目。もののけに見据えられる。これは金縛りの一種であろうか、と推察
されてきます。悪夢のような一瞬の物語。

 この詩は人に、語られたことば以上のなにものかを感じさせる、イメージの
輝きを持っている。私を含む何人かは恐らく「永遠の排泄」という文節に心を
捉えられたのではと思う。少々えげつないが、この聖と俗、精神と肉体の強引
な接続はちょっとすごい。

 この輝かしい文節に目は奪われがちですが、こういう場合にはその周囲に置
かれることばのセンスを、作者は問われます。
 この詩の良さを支えたものは2つあると私は思います。1つには固定観念に
囚われない視線の良さ。幻想のなかの時計と自分が歪むという、二つの逆説。
 大地や壁のような基準や、自分自身と思っていたものがゆさぶられる。この
想像力は、ことばの可能性を拓く力そのものです。座ったままテレビを眺める
ような視線で書いた詩では、こうはいかない。
 もう1つはことばの選び方の繊細さです。「灰色の」「たゆたう」「鮮やか
な光」「白い」「赤い」「無数の線」といった、色彩や立体感をふくらませる
視覚的イメージの表現や、「舞う」「散る」「打ち抜く」「揺らぐ、揺らぐ」
とウの母音で脚韻を踏んでいく、多様で直裁的な歯切れの良い動詞群。難解な
熟語や名詞を避けながらも、シャープな印象を平易さで溶解させてしまう事は
拒んだ。なんとなく詩らしいことばを選んだのとは違う苦心のあとが、私には
うかがえました。
 敢えて批判すれば、それでもまだ蒸留の余地はあります。機関銃は良しとし
ても、寂寞、空間、真昼の夢、磁場。春は何の匂いか、時計はどんな時計か。
もっと具体的なもので読者に投げかけたほうが良かったのでは。
 あと最終連の冒頭など、因果関係がやや分かりにくい部分もある気はする。
作品を成立させるためのつくりごとは許されると私は考えます。ストーリーや
場面ごとの動静を整理すれば、一層コントラストが際立って来ると思う。

 知らない人の詩を無闇に云々するのは嫌いですが、この詩は駄作では無いで
す。これを産み出した自分を信頼して、次のテーマに進んで欲しい。
 そのとき時計はもう一度、動き始めるでしょう。
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