生贄合評スレ[153]
2005 06/21 22:26
クリ

僕はこの詩にはとてもポイントを入れることはできない。
十代の方々が入れるならともかく、一応の「大人の詩人」がポイントを入れるレベルではないのだ。
本人が「未詩」としているように詩としての完成を少しも狙っていないし、レトリック不在だ。
レトリック必要なのか、というのならば、これはアートになっているか? と言おう。
(敢えて言えば「武装蜂起」を「武装放棄」とした「ダジャレ」の部分のみか)
百歩譲ってこれが独白だとしても、その内容の「青さ」はとても恥ずかしい。

さて、これは本人自覚の上で書いていることは間違いのないことであると思われる。
では何故書いたのだろうか。
それはたとえばだけれど、若い世代がどう反応するかみたかったのではないか、と僕は思う。
だから僕がここにこんなことを書くのはとても余計なことなのだ、本当は。
じゃあ何故余計と分かっていて書くのか、それは…。(推測がつくと思うので省略)

いとうさんの詩は、数年前と比べると少しずつ変化してきている。
たとえば扱う題材で言うと、以前は思想的なもの、イデオロギー的なもの、信条的なものをストレートに書くことはまずなかった。
むしろ嫌って避けていたように僕は感じていた。思い込みかもしれないけれど。
もうひとつおまけに邪推すると、いとうさんのこの小さな変化は、911の影響が大きいと思う。
あのとき「詩は無力ではないのか?」と思った人が何人いるだろうか。
いとうさんは実は、この類いの内容を詩に昇華させるテクニックをまだ自分のものにしていないのではないかと感じられる。
だから「未詩」にならざるを得ないが、それでも本人は「反応を見たい」のである。
別の考え方もある。
詩人たちは何を書くべきか、ということを探っていきたいんだけど、どうかな、みんな、と言っているように思えてならない。
それは若い世代に向けて発せられている。だから「青い」のだ、意図的に。そうだとして書き続けると…。

この詩の中では「言葉を捨てろ」とは言われていない。「言葉で武装するな」と言っていてるだけだ。
ここで使われている「言葉」という単語は、いくつかの他の言葉に置き換えても、この詩は成立する。
たとえば「宗教、あるいは相容れない宗教たち」、あるいは「思想、信条」あるいは「意味」。
つまり「xxxはyyy以外のなにものでもないという定義」とひっくるめて言える。それを「言葉」としたと仮定して許されるだろうか。
「言葉」は「ことのは」つまり「事の端」であり、「事のすべて」ではないのである。
「象は太い柱のようだ「象は大きな蛇のようだ」「いやいや象は鳥の羽のようだ」「いや象は固くて尖っている」
これはよくたとえに出される、暗闇で象に触ったものたちの「象の定義」の違いを表すたとえ。
すべてが正確だが、すべて間違っているのだ。
では真実に近づくためにはどうするべきか。可能な限りの意見を統合しなければならないのだ。
そのとき初めてきわめて真実に近い「象像」が浮かび上がる(ダジャレ)。
そしてそれを逆から言い換えると「言葉で武装するな」ということになる。
手中にあるだけの自分の言葉を武器としたとき、彼は真実から遠いのだ。

それを伝えたくていとうさんはこれを詩ではなく、「未詩」とせざるを得なかった、のだと思う。
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