10/18 00:13
深水遊脚
ひと通り書いた気がするので、まとめに入ります。書いて来たなかで引き継いだ問題の考えがクリアになってきました。
素材の入手方法と詩への活用法。思い込みの枠を外せば自然に流れ込む。それをもとに、情熱があれば書けばよい。情熱が次の素材に心を向かわせるし、自ずから素材を受け入れる準備も自然にできる。
記憶と詩の関係性。忘却したもののなかに真実がある場合もある。都合のよい記憶は創作の邪魔かもしれない。
自己表現とはと問う自己について。自己は思い込みの枠そのものであり、解体しようとするくらいがちょうど良い。
万事考えすぎず、無為自然が良い。遊びや余裕も大事かもしれない。そんなふうに考えます。
あとは私が付け加えたなかで具体的なものについて。まず古い歌謡曲の出鱈目な英語については、小林朗子の「恋におちて」が頭にありました。これについては吐息を薔薇に変えるのは誰かを考えると、WILL YOU で始まる疑問型でいいのか?から考え始めると本当に変だと感じていて、2番の直訳英語歌詞がなければいい曲なのにな、と思ってしまいます。英語でやるなら意味が合っていればいいというレベルでなく、ちゃんと詩的表現を英語で実現してほしいし、そうでなければ日本語を操れと言いたいです。まあ一曲にそう熱くなる必要もないのですが。
擬古文については、英語ほど私は精通していなくて(英語もあやしいですが…)コメントできる立場にないですが、上記の英語のようなヘンテコリンな古文が出来ているとしたら、誰かがおかしいという必要はあります。孤蓬さんがそれをしているわけですが、時にそれを不快とする人がでる。自分の思い込みに古語のほうを引き付けるよりは、自分の使う言葉と古語の違いを見据えるべき、という考えならばこれは必要なことのように思います。
英語や古文を使って何かを書くことへの挑戦はどんどんやったらいいと思います。ただ、変なものは変であり、変なままこれは自由な表現だと開き直る姿は、正直あまり見たくないです。
やっぱり是非の話になってしまった…
これで書き切りました。あと、改行について私の過去作の推敲過程を絡めて後日書いてみます。