廃人がポツリとつぶやく部屋12[607]
2011 03/21 19:36


ここ一週間余りのあいだに、ニホン語レートがハゲしく揺れ動いて、水道水の持つ意味が(も)劇的に変わってしまった。
いまどき、水道水を直で飲用している人は少数派かもしれないが、今日もぼくは笛の鳴らないヤカンで水道水を沸かし、カップ麺にゆを注ぐ。
もともとこの地域の水道水にはろくなイメージがない。イメージ、ていうかじっさい、ろくなもんではない。。(フード・ファディズムとは無縁のぼくが、純粋に味向上を目指し、100YENの値で購入してきた超高性能型ヤシガラ活性炭マイクロフィルタ内臓蛇口...を、蛇口に取り付けているほどだ普段から。。)
そして今回のニホン語レートの大きな変動により、そんな水道水に新たに、放射能、というイメージが加わった。
ぼくの家の飲み水(水道水)が約、120パーセント安全だということはわかっている。いつも通りカップ麺にはガンガンゆも注ぐ。
だが、いったん変容したものはなかなかもとには戻らない。蛇口を捻りながら、ふとそんなことを考える。
公園の四角い花壇の冬のクレマチスにいきおいよく散水するおじさんを尻目に蝋梅の花を手折ったりしたつい先月と今とではたぶん、ぼくたちは違う言語空間に生きている。

いつまでも変わらないもの。変わらない味。
きのうの日曜日。ゆうがた。ぼくはいつも通りにカップ麺をズルズルしながら、ちびまる子ちゃんを見ていた。
ちびまる子ちゃんは、70年代のS県S市を舞台にしたホーム・コメディ漫画(アニメ)だ。
だがそれは、?80年代を生きる作者の目から眺めた70年代?のドラマで、たんなる70年代のS県S市の話ではない。
そしてぼくは40年間変わらない味とうたわれるカップ麺をずるずる啜りながら、プラズマに映るちびまる子ちゃんを2011年の食卓から眺めている。
40年前のどこかに、ぼくはいない。70年代のS県S市には、誰も間に合わない。
先月の暖かいふゆの日の公園に、散水するおじさんに、2011年3月11日には、もはやぼくも誰も間に合わない。誰もS県S市の言葉では語れない。
代わりにぼくは今日も笛の壊れたヤカンで水道水を沸かし、カップ麺にナミナミとゆを注ぐ。

#すこし加筆
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