2011 01/13 10:10
……とある蛙
>>721 中川さんおはようございます。
詩の批評に関して走り書きのようなものを書いたことがあります。どこかで投稿したことがあるかも知れませんがアップしておきます。
閑話休題
陳腐なしごく私的な詩も淘汰されない。時代がくる。と入沢康雄氏も言っています。
「これからはかなりひどい時代になるのではないだろうか。お互い誰が何をしているかわからないという孤独な作業の時代になるかもしれない。……それぞれが勝手に詩を書いてそれを詩集にまとめて出せば、一応のほめたり、けなしたりはあるけれども、だからといってそのほめられたものが、ほかに大きな影響を与え新しい流れができるとか、陳腐なものやみかけだおしのものが淘汰されていくということもない。醒めたといえば醒めたといえる時代がここ十年は続く。」
入沢康夫の1970年代の発言です。相当程度現在にも妥当します。ネット詩の点だけが少し異なりますが。
もう30年以上もこんな状態が続きていいます。ネット詩に至っては最初からずっとこんな時代です。そんな詩、人に見せるものじゃないでしょうと言うくらいのものでも匿名性があるので、そのまま公開されます。顔を見せないストリップです。そのヌードが美しければ問題在りませんが、醜悪な場合は単なる迷惑かも知れません。
そうでなければ荒地派の隠喩レトリックの王様論そのままの詩もあります。
書きたいことの切り口、発想(モチーフをどのように詩として成立させるか)についてほとんど考えたあとが無く、ただ思いつくまま書いているような詩が多いということがあげられます。
生のまま書かれても、興味のないことはほとんど読む気がしません。特に作者の感懐をそのまま書かれても ヒクしかありません。
このままの状態が続けば詩の鑑賞は結局作者と読者との関係性に強く依存していると言わざるを得なくなります。
詩の論評と称するものは幾らでも独善的な批評が可能です。。
詩の内容などは極論すれば詩を換骨奪胎することによって、ほとんど意味が失われることが可能なものです。
批評のやり方によっては全くつまらない詩だということも当然書けます。
嫌いな詩(嫌いな人)は行間を無視すれば 当然陳腐な内容になることを知らなければならないと思います。
また、論理的な詩ではないのに散文的な基準で批判をしたり、逆に独りよがりの暗喩を良いと言ったり、結局詩の持つエネルギーを拡張するような批評は見あたりません。
ひどい者ではこれは詩ですらないとか、詩を冒涜しているとか、さらにはそのようなもの(その人の詩を最近読んだことがありません)を書くな※という趣旨の恫喝まがいのことを平気で書いている方もいらっしゃいます。
「最小限の社会性(社会認識、判断、知識)」もない人がいるのかとすら思いました。
そういう人に限って自分は社会性があるなどと勘違いで寝とぼけたことを言っております。
ことほどさように詩の批評は難しいものです。丸谷才一さんのように詩は酒の肴になるとでも表題をつけて語った方が良いのかも知れません。丸谷さんは私と似ていていて荒地派とか観念的なものが先行しているものは苦手だ。 としています。
つまり、言葉の選び方の感性が粗雑なため(美しくないのね)、読んでいて楽しくないだけでなく顔をしかめたくなるものが多いからです。
「櫂」の同人の人たちのものの方がずっと読んでいて楽しいのも似ています。大岡信さんが好きみたいです。和歌の素養がありますものね。
個人的には焦らずにいろいろな詩を偏見無く読んで行くしかないとは思いますが。
この世界も少し楽しくやれないかなぁ と思います。現代文学は詩を失ったッとさえ言っている人が多いのですから。