論戦スレ。[831]
2011 03/27 10:00
只野亜峰

サンプリングという言葉に突込みがあったので補足しておきますが僕自身上手くこの単語を使えているかはわからないです。
論戦に首を突っ込んだ時点ですでに使われていたので自分なりの理解で使っていましたが、その理解が正しかったかどうかは自分自身微妙なところです。
なので見苦しい部分があったならここでお詫びしておきます。

それで、撤退するつもりでしたが自分に向けて言われているような部分があった気がしたのでもう少しだけ。
銀上さんの主張の中でどうしても解せない事が一つだけあって、銀上さんの主張は筆者や読者の主体性というものをまるで加味していないのですよね。
どこかの漫画化が「読者にあるのは作品の話を変える権利じゃない。 その作品を読むか読まないかを選択する権利だ」なんて言ってましたね。
読み手に読み手の哲学に基づいて行動を決める権利があるように、書き手にも書き手の哲学に基づいて主体的に創作する権利があるわけです。

僕が>>823で例に挙げた椎名林檎の「丸の内サディスティック」を例に挙げてみようかと思います。
「ピザ屋の彼女」がブランキージェットシティの「ピンクの若いブタ」に書かれていたフレーズであるというのは前述した通りです。
しかしながら椎名林檎というアーティストを目当てにする聞き手が必ずしもその事を知っている・或いは理解していると考える事は合理的ではありません。
彼女を取り巻く聞き手の中で「ピザ屋の彼女」と「浅井健一」を理解している人間が果たしてどれだけの割合でいるでしょうか。
おそらくそれほど多くないのではないでしょうかね。「ベンジーは浅井健一である」なんて事すら知らないファンもいるんじゃないでしょうか。
10年以上前に全盛を終えたアーティストの存在を椎名林檎のファン層となる年代が共通認識として持っている等と考えるのは論理的ではありません。
つまり、聞き手という大きな括りに対して用意された「とても広い相互理解という広場」なんていうものは彼女と聞き手の間に存在しないわけです。
しかしながらそれは椎名林檎がベンジーを敬愛していると知っているファン、或いは浅井健一を知るファンの中では興味深いスパイスとして作用します。
そして、椎名林檎には書き手として「ベンジーは私が尊敬するロックスターでピザ屋の彼女は〜」なんて聞き手に発信しなければならない義務はありません。

それは同時に彼女のフレーズ引用という行為がアイデアの不足を補うための幼稚な流用であったという可能性を生じさせるものでもあります。
僕が彼女の行為をオマージュだと理解しているのは聞き手である僕が「椎名林檎は浅井健一の事を敬愛している」という認識の下で考えているためなわけです。
しかしながらひょっとすれば彼女が示した浅井健一に対する敬意は嘘っぱちであるかもしれませんし、営業上の建前であるという可能性だってあるわけです。
そんな中で彼女の敬意を証明する手立てなんてものは存在しませんし、ならばそれは彼女しか知りえない(彼女すらわからない)事であるわけです。
よって「椎名林檎の真意」なんてものの正体を探る事は真意を客観的に証明する手段が無い以上は不毛な行為であり、無意味な行為です。

それに作者が出典を提示しなかった事により元ネタがわからなかったであろう読み手の存在をずいぶんと心配されていますが余計なお世話です。
その事がわからなかったからといって読み手が何らかの不利益を受けるとは思いませんし、わかったから何らかの利益となるなんて事も思いません。
せいぜい読み手の中で書き手に対する評価材料が増えるというだけの話のように思います。(もちろん法的な盗作であるなら別です)

そんな中で読み手が行える事は何であるかといえば、それは「判断」と「行動の決定」でしかありえないわけです。
読み手は『ピザ屋の彼女』に対して、自身の哲学に照らし合せて「幼稚な猿真似である」「オマージュである」などと様々な判断を下す事ができます。
その判断自体は個人の受け取り方の問題なので他人が口を挟むことではありません。問題はその判断に基づいた行動の決定であるわけです。
仮に読み手が『ピザ屋の彼女』を「悪質で幼稚な猿真似である」と判断したとしましょう。
読み手には行動の自由があります。彼女を猿真似作家であると軽蔑するのも個人の自由でしょう。猿真似作家と罵倒する事もまぁ、自由です。
しかしながら、おまえの幼稚な猿真似は不快極まりないから撤去しろ・若しくは猿真似の出典を明示しろとなると話は別です。

「読み手の個人的判断」は「個人的な感情」でしかありません。「個人的な感情」を相手に強要するにはそれなりの根拠が必要となります。
例えば「貸したお金を返して欲しい」という個人的な感情の強要の根拠は「民法第3編債権」によって保障されるものであるでしょう。
では「幼稚な猿真似の出典を明示しろ」という個人的な感情の強要の根拠はいったいどこに求めればいいのかという話になります。
「幼稚な猿真似の出典を明示しなければならないケース」とは「作品そのものが剽窃と言えるような悪質な猿真似であったケース」であるでしょう。
その場合であればオレンジレンジのガキどものようにオリジナルとして出した曲に原曲クレジットを入れるようなマヌケな醜態を晒せば良いと思います。
しかしながら「フレーズ単位の流用」は「作品そのものが剽窃と言えるような悪質な猿真似であったケース」であるという結論を導き出す根拠にはなりません。
ましてや「私が自分の哲学に照らし合せたら悪質な剽窃だった」「他にもそう思う人がいるはずだ」なんていう主張は批判の根拠にすらなりません。

結局のところ「谷森さんに出典を書かせたい」なら「銀上さんの個人的な感情」を保障するための「客観的な根拠」を示すしかないわけです。
そして残念ながら「法的解釈」はそれを保障してくれるものではありませんでした。となれば残る拠り所はモラルという概念的な存在なわけです。
谷森さんは「出展を書きたくない」という個人的な感情の根拠として「法的なものや文学史での扱われ方の事例」を挙げたわけです。
「その上で書き手のモラルとして問題がある行為であるのか伺いたい」と意見を募っているわけでもあります。
銀上さんが「置いとく」と言った「一般論として通じるものであるか」というのはですので銀上さんにとっての最後の砦であったのではないでしょうか。
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