論戦スレ。[11]
2008 11/13 03:39
白井明大

大村さん

こんばんは。
お返事をありがとうございます。週末が過ぎ、平日の仕事を終えられた後の文章であったかと思いますし、私は遅いとはまったく感じておりません。むしろお気遣いさせてしまったかと申し訳なく思っております。

明日以降、ばたばたしそうな反面、今晩はゆっくりできているので、いまのうちにお返事をいたします。

寺西さんとの話は、まったくもって、「書き手に責任のとりようはある」との反論を私が試みては、「そんなことはできない」と寺西さんにあえなく通じず、といったやりとりの繰り返しでした。

寺西さんのお名前を出して、この話をしましたのは、私の考えが寺西さんの受け売りであることを明記するためと、そして、亡くなってしまったので、寺西さんがこんなことを言っていたよ、といろいろな人と共有するためのテキストを残しておく場として、広く開かれたこの場がふさわしいように思えたためです。

私もまた、あんまりふみこんだ話をたくさんできたわけではないので、もっと幹くんとか、げっきーとか、クロラくんとか、関西のたくさんの詩人さんとか、いろいろな人が話してくれたらな、とそんな願いを持ってもいます。

これは論点と離れた話でしたが、書いておかせてください。

       *

「他人の人生に責任を持つことは誰にもできない」
というこの点について、大村さんご自身の詩を例に挙げてお話くださったこと、拝読し、書き手としての大村さんの姿勢をいくぶんかでも教わることができました。ありがとうございます。

>責任の外にある、あるいは外にしか居られない。それであってもなお、責任のことを考える事は、詩人にとって無意味な事なのでしょうか。当事者でない以上、それは余計なお節介に過ぎないのでしょうか。

私は第一に、詩をもって、他者と関わることが可能な場合があるだろうと思っております。
詩が、他人と関わることがあるだろうと。そこに意味がありうるだろうと。
書き手の責任感や覚悟といったものは、あってもいいしなくてもかまわない、けれど、書き手から生まれた詩が、大村さんのおっしゃるように「表面的な他者、あるいは仮想のキャラクターに関する記述が、突然あたかも自分の経験であるかの如く感受されるという、考えてみれば妄想に近いような瞬間の訪れ」をもたらしうるのではないでしょうか。ただしそれは、責任感や覚悟から直接もたらされるものとは限らず(もたらす場合もあるでしょう)、詩それ自体によってではないか、というふうに、まずは捉えることなのではと思っております。

もし、他人の人生に責任を持つことができないとしたら、では書き手としてすべきことは何か、ということも寺西さんとお話しました。ですが、酔っていたせいもあり、記憶が定かではありません。たしかこんなだったような、というあやふやな印象をもふまえて、寺西さんから教わり、他の多くの詩人から教わり、私がその後思うようになったのが、じぶんが心から書きたいと思ったものを書こう、ということでした。心から、といっても、深刻な心もあるし、気軽な心もある、とそうした「心から」という意味です。嘘偽りなく、本当に、ときに気軽に、ときに無意識に、ときに深刻に、でも確かに書きたかったから書いた、もしくは書いてみたらできあがって気に入った、もしくはなんだかいつのまにか書けていたけど見たらじぶんの詩だなと思った、といったことも含めてのこととして「心から」。(もちろんそうしたことさえ、他人には関係のないことですが)。

あくまで他人にとっては、書き手が「つきつめる」かどうかは、やはり、どちらでも変わりないという気がいたします。感動するときは感動する、傷つくときは傷つく、そこには読み手のほかには詩があるだけです。ただし、詩を書き、発表する時点までは、です。

その後に、読み手の反応が起きたらどうするか。そのときに、どうするかについては、書き手に問われることなのではないかと私は思っております。それは、書き手としてのみならず、人としても、です。

ですから、

> しかし、そうでない人の「作品」とか称するものを、どうして受け入れなければならないのか。もし作者が無条件に保護されなければならないとしたら、それを読まされる読者は、あるいは別の作者は。

という箇所のうち「受け入れなければならない」「作者が無条件に保護されなければならない」というふうに考えているわけではありません。
作者は、責任感も覚悟も持ってもいいし、持たなくてもいい。と同様に、読み手をはじめ、作者の「作品」に反応し、影響を受けた者はやはり、声をあげていい。そのとき作者が、べつだん保護されなければならない筈はない。
そのように私は考えております。

責任感や覚悟を持つ持たないにかかわらず、されるときには糾弾されるでしょうし、浴びるときは賞賛を浴びるでしょうし、それがいいのではと思っています。

>第一の発言(作品)が自由ならば、第二の発言(批評)が自由でない、というのは公平ではありません。

という意味では、作品も批評も、どちらも自由になされるべきだというのが私の考えです。
大村さんと異なるとしたら、それらが自由になされるときに、発言者の内面として「責任感」や「覚悟」を伴っていなければならない、という条件付けまでは必要ないと私が考えている点です。
発言後に、他者の第二、第三の発言が生まれたとき、それらから第一の発言者が逃れることはできない(逃れるとは、行方をくらますとか言い逃れをするとかそういうことをできたとしても逃れられないという意味として)、と私は考えております。

それゆえ、

>文学的問題を問い質し「つきつめ」ていくことが唯一可能な環境は、自由に作品を書け、しかも自由に批評できる、という場のほかにはない、と私は考えます。

とおっしゃる結論に、私は賛成いたします。

その「自由」の内容として、責任感を抱かないことも、覚悟をしないこともあるだろう、ということです(ただし、責めを負わなくてよいわけではなく、むしろ責任感を抱いていなくとも責められることがあるだろうし、覚悟していないことによって後でより痛い目をみることはあるだろう、ということも含めて)。

ちなみに、

>自分の全ての知識と表現技術を惜しみなく投入して、芸術作品としても見事な戦争詩が書けたとする。しかしそれは自分にとって、世界にとって、どんな意味のある作品なのか。芸術が倫理を超越した事例として、それを禁断の美として眺めたり愛でることは出来るけれども。

ということについてですが、私はそのような作品は好きではありません。好きな人がいてもいいし、高く評価されてもいいけれど、私にとっては、芸術作品としても見事でもなんでもない詩、だろうと思います。世界にとってどのような意味があるかは「一つの詩が、世界にとってどのような意味を持つことができるかを考えるとき、詩とはどういうものかを考えるとき、その他もろもろの問いに対する、一つの答えのサンプルになる」ということではないかと思います。

うまくお返事になっているか、心もとありませんが、このように考えております。
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