論戦スレ。[10]
2008 11/13 02:13
大村 浩一

雑談スレ7軒目の50 白井明大さんへ。

 雑談スレで別の議論が進んでいますので、私はこちらのほうで書きたいと思います。

 白井さん、お返事が遅くなってすみません。
 この件に関しては、ぎりぎりのところまで話さなければならないと思っています。

 寺西さんとは、私は、決して十分に話しを出来た訳ではありません。
「詩学」に、原稿と詩を書かせて頂いたことはありましたが、そのあと深い交流はありま
せんでした。私の中に劣等感があって、腹を割った仲になれないままで終わってしまいま
した。残念でなりません。

>そのとき寺西さんは、
>「責任とはどういうことですか?」
>と訊ねてきました。なにをどうすれば、書き手は責任をとったことになるのか、と。つきつめたところ、
>他人の人生に責任を持つことは誰にもできないのではないか、とおっしゃっていました。

 白井さんが寺西さんに語られた時の情況は、私には分かりませんが。
 寺西さん自身が「つきつめた」と語られた認識については、納得ができるように思いま
す。急病死でしたが、その生涯は詩にささげられたと言って過言はないと思います。その
寺西さんの言う「つきつめた」ならば、私は信頼できます。

 あるいは白井さんも、「つきつめた」と言うような、詩に対して思考を研ぎ澄ましてい
くことについては、研鑽を積んだ方だと私は感じています。
 白井さんのようにいま生きている人の「つきつめる」は、誤りがあればそれを正してい
く、という意味が込められている、と私は思っています。「つきつめる」の量を対比する
ことは難しいですが、学識なり作品に接することでそれは推察できると愚考します。
 恐らく、そういう人たちの言う「つきつめた」ならば、私は信頼できます。

 「他人の人生に責任を持つことは誰にもできない」という意見については、私も同意し
ます。おそらくそんな事は、誰にも出来ない。
 私は以前、夕張についての詩を書きましたが、あの詩を故郷への侮辱と考えて怒り狂う
人は必ず居る、と覚悟して私は書いています。実際あの詩には、朝鮮人の強制労働などに
ついての記述は殆どありませんし。(実は、短い旅行のあいだで見た資料の中には殆ど記
述されていなかったのです)

 それでも私は、あの詩の作者が誰かと問われた時に、私の作品であることを否定しよう
とは思いません。白井さんもおそらく自作について「この詩の作者はあなたか」と問い詰
められた時に、それを否定することはないだろう、そう私は信じています。(詩のなかの
主体、ではありません。あくまでも作者のことです)
 責任の外にある、あるいは外にしか居られない。それであってもなお、責任のことを考
える事は、詩人にとって無意味な事なのでしょうか。当事者でない以上、それは余計なお
節介に過ぎないのでしょうか。

 そうではないからこそ、表現活動はあるのではないでしょうか。
 表面的な他者、あるいは仮想のキャラクターに関する記述が、突然あたかも自分の経験
であるかの如く感受されるという、考えてみれば妄想に近いような瞬間の訪れを、私は信
じて書き、読んでいる。

 しかし現実にはそうした「つきつめる」行為の意味を理解しない人のほうが、圧倒的に
多いのですよ、白井さん。
 誰を傷つけ疎外しても気にせず、自分の表現欲・支配欲のことしか眼中に無いような人
たちと、私は何度もネット上で格闘してきました。中には文学的な理論武装をした人も居
た。脅迫メールは何度も、脅迫電話は2度受けました。最後の1回は恐喝に該当する内容
を含んでいたので録音テープを残してあります。(今回の件ではありません、念のため)

 書きたいものを自由に、作品として書く。本当はそれでよい。つきつめれば。つきつめ
ることの意味を知っている人たちとならば。
 しかし、そうでない人の「作品」とか称するものを、どうして受け入れなければならな
いのか。もし作者が無条件に保護されなければならないとしたら、それを読まされる読者
は、あるいは別の作者は。
 現フォの場合、作品と批評というからややこしくなるのかもしれません。
 たぶんネットの場合、第一の発言、第二の発言と言ったほうが分かりやすい。第一の発
言(作品)が自由ならば、第二の発言(批評)が自由でない、というのは公平ではありま
せん。第一の発言がはらんでいる問題を、誰も批判できないことになる。

 文学的問題を問い質し「つきつめ」ていくことが唯一可能な環境は、自由に作品を書け、
しかも自由に批評できる、という場のほかにはない、と私は考えます。 

 それじゃあそとの暴風吹きすさぶBBSと同じじゃないか、と思われるかもしれないが。
ここの場合には少なくも、詩に理解のある人間が発言することに期待できるし、その発言
者の度量・能力を図る情報が多少はある。「つきつめて」書こうとする人にとっては、そ
れだけでもだいぶ救いになるんじゃあないか、と私は思います。
 ユルユルの、詩を楽しめるサイトは他に幾らでもあるし、誰にでも作れる。…それなの
にここに結局人が集まってくるのは、多少は理のある厳しさによってここが管理されてい
るとともに、自覚のある人によって発言の流れが形成されていくから、なのでは。

   * * *

 余談です。瀬尾さんの戦争詩論、私は実はまだ読んでいないのです。
 何を書いてもいい。つきつめて書くのならば。…神戸女子大の2日目の瀬尾さんたち戦
争詩の座談会に、そんな意見がありました。
 独りになって考えてみると、どうしてもわだかまりが残る。自分の全ての知識と表現技
術を惜しみなく投入して、芸術作品としても見事な戦争詩が書けたとする。しかしそれは
自分にとって、世界にとって、どんな意味のある作品なのか。芸術が倫理を超越した事例
として、それを禁断の美として眺めたり愛でることは出来るけれども。

 文責 大村浩一
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