雑談スレッド7軒目[52]
2008 11/10 23:29
白井明大

孤蓬さん

こんばんは。

>日本語における文学の場は、「多言語を用いる多民族が流動的に交流する場」ではないという現実があるからです。

あの、、少し語弊がある気がいたします。そう言い切れるほど強度な現実はないように思います。

中也賞をアーサー・ビナードさんが受賞なさったり、田原さんが二国を渡す活動をなさったりしているのはけっしてそれらが例外的なできごとではなく、たくさんの人が他国語を母語としながら、日本語の詩を楽しんでいる現実を象徴しているのではないでしょうか。
私の個人的な経験に照らしましても、たとえばベンズカフェを訪れれば(ときどきですが)、国籍を問わず、日本語の詩をいろいろな人がリーディングし、また聴きに来ています。その場もまた、日本語における文学の場ではないでしょうか。

もう一点、

>短歌や俳句などの短詩では(中略)片言のような表現しか出来なければ、質の高い作品を量産することは難しいと思います。
>そもそも、ピアノを演奏する技術を持たなければ、他者からピアニストとして認められないのと同様に。

「片言のような表現」とは技術の巧拙をいうのに対して、例示なさっている「ピアノを演奏する技術を持たなければ」とは技術の有無をおっしゃっており、論理にズレがあるようです。
例示として正確を期すなら「ピアノを演奏する技術がつたなければ」でしょうが、はたして「ピアノを演奏する技術がつたなければ、他者からピアニストとして認められない」とまで明言できるでしょうか。写真という分野を例として挙げれば、むしろ撮影技術がいたずらに巧みになることをおそれる写真家の発言が散見されます。

また「短歌や俳句などの短詩では」とおっしゃいますが、いま書かれている短歌のなかには、あえて禁欲的な語彙のなかでことばを用いて、いま生きている人の実感、心象をありありと表現なさっている方もいらっしゃいますし、さまざまな詩歌の生まれ出る可能性をあえて狭める必要はないかと存じます。

古語を大切になさってのご発言かとは存じますが、ご配慮くださいましたら幸いです。

sage
スレッドへ