2008 11/10 11:09
白井明大
Klausermanspitzwegensdorfentagさん、はじめまして。
プロフィールを拝見しまして、少しずつさかのぼって読んでらっしゃるとのこと。
驚きとともに、敬意を抱きました。
そうした詩の読み手がいらっしゃることのなんて幸せなことだろうと思います。
大村さん
こんにちは。
>自分が書いたものが公やけの場所に掲示される時、誰かにダメージのようなものを与え
うる、という事態を想像出来ないまま書く、というのは無責任な行為だと思う。
の箇所を拝見して思い出したことがありました。
ほぼ同じことを私が、寺西さん(詩の雑誌「詩学」の編集長だった詩人さんです。大村さんはごぞんじでしょうが付記しておきます)に話したことがありました。
そのとき寺西さんは、
「責任とはどういうことですか?」
と訊ねてきました。なにをどうすれば、書き手は責任をとったことになるのか、と。つきつめたところ、他人の人生に責任を持つことは誰にもできないのではないか、とおっしゃっていました。
では、書き手は何を負うのでしょうか。
書きたいものを、書く、ということ以上に書き手に負うことはできないし、それだけなのだといまでは思うようになりました。
かならずしも書きたい気持ちが重いものでなくてもいい。気軽にふっと書いてみるのもいいはずです。そして、願わくば、じぶんの書きたいように詩が書けるように、とその一心になることがあるかもしれません。なにも考えずに手がうごくように詩ができ、あとからじぶんでもおどろくようなことがあるかも。
詩の書き手が、詩を書くとき、また公にするとき、「こうであらねばならない」というなにものもなくてよいと思っています。
もちろん、そこから反応が起きたとき、その反応と向かい合うことにはなるでしょうし、そこからまたはじまるものことがあるかとは思います。
また、じぶんの書いたことばが誰かを傷つけることになるのは、悲しいことです。それでも、書き手は詩を書くだけなのではないでしょうか。そんなふうに思いました。