2008 11/09 15:34
大村 浩一
>>44 白井明大さん
論点を確認するために、再度書きます。
>「1.作品を公開するということは、誹謗中傷を含めあらゆる反応が起こるリスクが、厳然たる
>事実として、そこに存在する。」
>という点は異論ないのです。作品というものは、読み手の反応を呼び起こす可能性を秘めており、
>その反応としてあらゆる事態が起こりうる、というのは文字通り「事実として、そこに存在する」
>と思います。
>ただ後段の「作品公開に当たっては、作者はそれを覚悟すべきであると考える。」
>については、その「覚悟」をするもしないも個々の書き手に委ねてよいのではと思っております。
私もまた全ての書き手が、あらゆる反応には覚悟しようがしまいが晒されているし、ま
たその覚悟も個々の書き手にゆだねる他はない、と思っています。
ただ私は、前出のリスクの存在は知るべきだし、そうした批評批判が来た時にどう対応
すべきか、という事は皆に知っておいて欲しいと思います。
自分が書いたものが公やけの場所に掲示される時、誰かにダメージのようなものを与え
うる、という事態を想像出来ないまま書く、というのは無責任な行為だと思う。
その他方で、前文のリスクの存在を口実にして、議論を仕掛ける側が自分を過剰に正当
化することも出来ない、と私は考えます。
>これは読み手という立場からの願望ですが、詩の場はちょっとゆるいほうが、思いもよらない自由な詩が出現
>しやすいのではないかと思っております。
どうなんだろう。厳しかろうがゆるかろうが出てくるものは出てくるし、厳しさに耐え
られないものは数年で淘汰される程度のものだ、と私は割り切っています。
表現の基層はいま明らかに変化してきている。これまでの文章表現や批評のあり方では
掬い取れない現実の問題や感覚が出てきているのは、私も承知しています。
その「表せない」やり切れなさが社会的に募ってきているから、今頃になってネットが
世界を変える的な議論が、あちこちで再燃しているのだとは思います。
ただそれは、どこかで既存の世界と渡り合い越境して行かない限りはどうしようもない。
立場のような妄想や固定観念が、それぞれの書き手の中にあるのだとしたら、それも超越
していかない限り、新しい作品に対する価値観は世界と共有できないでしょう。
>「ヒールというスタンス」とは、どういったことなのでしょう。
>そこには、プロレスのヒール役のような振る舞いで他者の詩にコメントを付す、といった
>ことも含まれるのでしょうか……。
ヒール云々は現段階ではふさわしくない事を書いたと思うので、私から取り下げておき
ます。
>>45 蛾兆ボルカさん
イヤ、立場の信憑性じゃないですよ。そこはヘンな誤読です。
「本当にそんな立場がありうるのか?」という問いは、ここでは意味不明でしょ? ボル
ガさんも、いまそんな事を私に問いたいワケじゃないと思うのだけど。
私が言いたいのは、その立場を支える学説なり理論の信憑性、ということです。それが
議論の中で明らかになれば、立場が違う人も一応納得は出来ると思うのです。
その意味で、立場が違うのなら、なおさら会話は必要なんじゃないですかね。
>「間違ってるけど、俺はコレでいいんだ」、ということが許容されていればほとんどの場合、問題にはならな
>かっただろうし、「コレが間違っていないという立場もある」、という言明に対して、「自分の立場からは間
>違いだ」という再反論を繰り返すこは、間違った議論のしかたなんじゃないでしょうか。
その再反論の仕方は、ワタシも間違っていると思う。
この場合にはその立場の信憑性が問われている訳で、立場に固執して信憑性に対して説
明なり証拠で答えなかったら相手は納得しないでしょうから。
私は立場に固執する事ではなくて、むしろ立場を離れて議論を進める可能性をイメージ
しています。きちんと会話することは、その始まりだと思うのです。今回は結果として、
その会話や説明が行われた事で、議論はまあ達成されたと私は思っています。
「正しい」という言葉は難しいです。それは私も承知している。
天動説みたいに論理的に科学的に明らかにオカシイものだって、正しいとされてきた歴
史はあるワケですから。
利害が衝突しているような場合なら、正しさは決められない。政治的な判断で妥協する
しかない、ということにもなると思う。
ただ、ここでの議論の場合の「正しさ」ってものは、そんなに曖昧で正反対になり得る
ものなのかナ、と私は常々思うんですよ。そこはもっと煮詰めても良いんじゃないかな。
それで背景なり立場が分かるまで話をして、そこから汲み取って来れるものがあれば、
それで良いんじゃないかと。
あと
>>47 の「誹謗中傷に対する覚悟」というボルガさんの言い方は、なんだかヘンで
す。集合論ぽく言えば「誹謗中傷」は「反応」の中に含まれるけれど、極論の部分で範囲
を広げてしまっているし、それなのにその後で書いている項目は、私はみな同意できるも
のです。対立する要因がわからないよ。
>恣意的な運用をする場合は、逆に自分に甘く他人に厳しい運用だって出来てしまうと思
>います。
孤蓬さんの示した
>>36 は彼の認識であって、それに乗って運用される「行動原則」と
は意味が違うんじゃないかな。
運用したって言うよりも、恣意的運用が出来ないものだからこそ議論が発生したんじゃ
ないのかな、と思う。