2008 11/07 10:33
石川和広
>>30
まず「非力ながらのプロテスト」という表現を適切に用いなかったことをお詫びいたします。
またレスありがとうございました。もう少し丁寧に考えてみます。少し前のレスは乱暴だったかもしれません。
孤蓬さんの指摘の内容自体は、つまり誤用や違和のある表現を指摘すること自体はおかしくないと思うのです。また、もちろん孤蓬さんが文科省の回し者だとも思っていません。個人の責任で活動されていると理解しています。
かつても孤蓬さんとは立場がちがうかもしれないけれど、批評家の福田恒存が官製の国語施策への批判をしておられました。彼はその頃から歴史的仮名遣い表記を用いていましたね。
さて、しかし私も少し感情的になっていたから、乱暴な批判になっていたのかもしれません。ただ、国家を背景にしていないのはわかる。個人的な信念によって活動されていることも理解します。ただ、やはり以下のような一節が気になるのです。
>私の指摘は作者に対する非難ではなく、公開された作品をサンプルとして、そうした言葉遣いが誤り、あるいは違和感のある表現であることを、公開の場で、それを読むであろう方々の参考に供しているのです。
ここでわかったのは、これでは指摘された方々のうち幾人かが困惑したり怒ったりするのは致し方ないのではということです。
「参考になれば」というのは孤蓬さんの譲歩の表現なのかもしれないけれど、しかしこの文章の意味はやはりサンプルとしてあるいは症例として検討するということです。ならば、孤蓬さんが一文をものして、ご自分の文語表現に対する立場を表明する方が私にはすんなりわかるのです。
「作者に対する非難」ではないというのはわかります。けれど、やはり作品の送り手としては作者がいるわけです。第三者に触れられるとしても。
もちろん間違いに無自覚な表現を公開することというのは、私もどうなんだろうかと思う。適切な指摘は受けることは自然ですらある。ただ、「サンプルとして」「公開の場で」「参考に供する」というのは、どうなんだろうかと思う。
それよりは書き手に指南するのであれば、書き手自身に向き合って「これは間違っていますよ」と諭すほうが良いと思う。そうでなく「公開」において多くの方の「参考に」供するのであれば、孤蓬さん自身が間違いやすい文例を作ったりして、古文を書く際の注意点として表示するほうが理解しやすいのではないか。どちらかにしないと何となく指摘された方々も自分の無知を顧みるよりも、自分が出しに使われたと悪意に取る人もいるのではないかと思うのです。その人にも問題はあるのかもしれないですが。
私は優しい配慮を求めているというよりも、現在の孤蓬さんの信条やスタンスからするとそれがいいのかなとお節介ながら感じておるのです。
異なる信条の方々に伝える時、相手の信条との関わりは「サンプル」化できないと思います。
作品それぞれをサンプルとして扱うというのはどうなんだろうか。しかし語りかけているのは作者に対してです。それが広がりを持つというのは当たり前なんだけど、もし広く参考に供するのであれば、孤蓬さん自身のガイドラインを大まかに示すということが妥当と私は思うのですが。
つまり互いの学びということを目的とするなら、ひとりひとりをあたっていくよりも散文として、アナウンスメントをすることが今は効果を持つのではないかと考えるのです。そうして孤蓬さんの考えをコメント欄ではなく公にすること。孤蓬さんは個人でやっているのだが、孤蓬さんの活動は賛否はあれど広く影響をもっているからそう述べるのです。私は個人的には歴史や古いものに対し敬意を持ちたいと思っているのですが。
しかしそれは一人ひとりが愛する心の芽生えるのを待つしかないと絶望半分で思っているのです。また古文も学説的な説はありますが耐えざる新しい読解がありうると思います。それはここでは一応おきます。
#私は石川和広です。よくDMなんかで間違えられるのです。変換では「和弘」のほうが先に出やすいみたいなんですが。sage