11/07 01:51
石川和広
否定するつもりはないんだけど、非力な日本人へのプロテストのために、個個人が指摘をされるってのは、なんとなくお門違いな気がするよ。
個個人は語の使用が不完全な(と孤蓬さんがいう)現代日本人のサンプルなんだろうか。
あるときは孤蓬さんは、間違いを老婆心から指摘するに止めるというんだけども。
もちろん言葉遣いが変な人に疑問や違和感やもっというと怒りをもつのは否定しない。
ただ、孤蓬さんの憂慮の背後に語の用法の乱脈への義憤があり、その乱脈を確かめるように各個人に釘を刺すのはどうか。
俺だって間違うから世の中の腐敗の片棒を担いでいるかもしれん。しかし間違いが腐敗や非力を生み出すというのはちょっと言い過ぎでは?
概ね間違いをして気付くことで、ひとは変わる、けどなかなか変われない。それを放置するのは変だけど、かといって、律儀に釘を刺すことで、互いに学びは訪れるのだろうか。
実際多くの方が稚拙であっても反論するのは無理からぬ面があるだろう。
ひとはなかなか変われないから変わりたいと強く願う。そう思い、その人達が孤蓬さんと学びたいというまで、苦々しい思いをもちながらも待つことが教育なのではなかろうか。
孤蓬さんの態度は美しいと思う。しかしそれがこの日本の国語状況を変えようとするならこのような小競り合いで何が生まれるだろう。
しかし僕個人は国語全体の腐敗というか非力だという観測を持ちえない、誰か英雄的な活躍が国語全体の状況を変えうるとは思わない。言葉は他者とのものだから。
だから、おまえまずいよとは言えても全体状況の改善のために個個人に釘を刺すのは違和感がある。人の語の使用と思索によって言葉はかわる。その中には孤蓬さんが間違いを感じるものもあるだろう
全体の国語のためにひとりひとりが指弾されるのは本末転倒している気がする。
僕はずいぶん批判したわけだが、美しく正しいことを目指す人には「かなわないな」というしかないのだ。
僕だって自分の理のためには人を苦しめることが多い。自分のかわらなさを嘆く。僕は正しく生きられない。昔の人の嘆きや様々な声つまりもののあわれは、人が未完成な生しか畢竟生きられぬという深い洞察からあらわれ、それでもその声を響かせることで何かにつながりたいという切ない希求からあらわれていると思う。僕は古典に対して無学なので、孤蓬さんに申し上げるのは忸怩たるものがありますが。すまない。
sage