批評しましょ[94]
2004 08/11 15:23
ボッコ

横レスですみませんが。
>>93
ついでの部分を読んでいて少々気になったこと。

> 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、
> 戦後日本人に共通の
> ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を
> 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。
> なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり
> 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。
> 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって
> 現前化させることだとわたしは思っている。                             …ここまで(1)
> 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。
> それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。   …ここまで(2)
> しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、
> 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。
> その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。               
曖昧で大雑把ではあるんだろうけど、この文章自体はそれほど無論証的なものではないですよね。全体として、論証の形式を取っています。小前提等の部分を立証する証拠を、事細かに提出してはいないというだけの話です。

この(1)とか(2)は少しきり方が変で、引用文だけから言えば、
「詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ」までが(A)
「なんとなれば詩とは」から「読み取る作業だと思うからだ」までが(B)
「哲学とは」から、「現前化させねばならない」までが(C)
「しかし、」から、「「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい」までが(D)
と区分した方がいいんじゃないかと私は思います。

(A)までは、谷川俊太郎が「哲学的断章を詩の形式を用いて書いた」という(一番絞りさんの思うところの)「事実」が指摘されている部分。
(B)までは、「詩」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。
(C)までは、「哲学」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。
(D)までは、(B)(C)の定義に照らして、どっちから見ても谷川俊太郎の書いたものは中途半端であり、それゆえに何れの側面からも「ある意味で非論理的」であるという「結論」を示している部分。


(B)(C)の定義に、(A)の事実を当てはめると、(D)という結論が導かれると言うわけで、論証として形式上おかしいということはないように思います。


(B)とか(C)の、詩や哲学の定義の部分について、争いが生じうることは確かですが、この辺は個々人の相違が当然に大きいところです。一番絞りさんはその点この部分について自分なりの定義をはっきりさせているわけで、議論を提起するにあたって最低限必要な誠実さは(暴言等指摘されていることは措いて、この部分に限定した「議論」としてみた場合には)示されているのではないでしょうか。それに、(B)の方は分かりませんが、(C)の方は結構普通の認識だと思います(存在と無とか、普通だったら全然気にしないようなほんの少しの単語の意味をよく見えるようにするために、何百ページもの大著を書いたりするわけですからね、哲学では)。


ということで、これに反論するには、(A)の事実認識、もしくは(B)か(C)の定義の両方或いはいずれか片方、を、論駁しなければならないわけですが、午睡機械さんの反論はそうではなくて、
「これでは谷川俊太郎の全体像は捕まえられない」という反論です。けれどもこれは少し公平を欠いているかなとも私は思います。ある詩人の全てを追及することなど、大抵のアマチュア読者には、かなり困難な仕事だからです。どんな批評をするにせよ、大抵の場合、自分が切り取った一断面を前提に、論述を進めざるを得ないはずです。そして、一番絞りさんは、(A)の事実認識において、谷川俊太郎の「どの側面」を取り上げるかを、ある意味最初から限定しているともいえるわけです。

(A)が谷川俊太郎の全ての側面ではない、という批判は勿論可能でしょう。けれども、(A)を取り上げるトピックの前提として規定し、(B)(C)の自分なりの定義が示されている限り、(D)という結論は、「論理的な」「論証」だと私は思います(哲学としても詩としても中途半端だから、良くない、というのは成立可能な批判でしょう。勿論反論は可能ですが。このどっちつかずさこそがいいんだ、とか。けれどもそれを主張するならそれにも「論証」が必要でしょう)。谷川俊太郎の他の側面もある、この他の側面について議論してくれ、というのなら、それがどのような部分なのかは、反論を提起するほうがある程度具体的に限定して、指摘する方が良い(議論をスムーズにするものでもあるでしょうし、その方が親切でしょう)と私は感じます。漠然と、「谷川俊太郎はそれだけじゃない」と言われても、それでは谷川俊太郎の全てを論じ尽くさない限り一番絞りさんは何も主張ができないことになるわけで、それはちょっと不公平かなと。何となく思いました。
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