批評しましょ[72]
08/10 04:14
佐々宝砂

私は、どうしても世間のことをうまく考えられないタイプなので、レスを避けてきましたが、安藤そらさんの指摘は大切なものだと感じました。詩人そのものがエセかどうかを問題にするよりは、詩そのものを問題にするほうがいいような気が私にはします。

谷川俊太郎の詩、確か落首99に(うろおぼえ)、ニセとホンモノとどこが違うんだというような内容の詩がありました。限りなくホンモノに近いニセモノはニセモノなのか、限りなくニセモノに近いホンモノはどうなのか? そんなような詩でした。少なくとも、骨董の世界においては、ニセモノとホンモノをきっぱり決めてしまって「いい仕事してますねー」と断言しちゃう人がいます。そういう「断言しちゃう人」は世間一般というより、権威そのものです。詩の世界では、そういう権威がいるのかどうか、私には知ることができません。そもそも詩人というものは割に権威を嫌う傾向にあります。私も実はあまり好きではありませんが、ほんとに詩の権威というものがいるなら、反抗の矛先がきっぱり決められるのでラクでいいかもなあと妄想したりもします。

私個人は詩人を名乗っています。谷川俊太郎も詩人を名乗っています。私の大好きなロック・アーティストであるジム・モリソンの死亡届には、「歌手」とは書かず「詩人」と書いてあったそうです(彼自身が書いたのではないと思いますけど……)。もちろん世間認知のレベルは甚だしく違います。私なんかこのリストに載ってはいかんと思います(当たり前か)。

最近なんかやけに正直になっているのでどんどん書いてしまいますが、エセ詩人って、わるい存在でしょうか。寺山修司は、中井英夫に「贋物の金貨」と称されました。寺山は基本的に書き替え作家ですから、「贋物の金貨」と言われても怒らなかったでしょうし、もしかしたら、むしろ喜んだかもしれません。私も書き替え作家の部類なので、エセ詩人と呼ばれても別段怒る気にはなりません。「そのとーりよ」とほざいてしまいます。しかし谷川俊太郎はどうでしょうか。谷川俊太郎の詩作は、他の詩人と較べた場合、ものすごくバラエティに富みます。「ことばあそびうた」から「おまんこ」まで、「定義」のような前衛詩から「落首」のような社会諷刺詩、さらには鉄腕アトムの作詞まで。書き換え作品も多少はあると思うのですが、作品だけを読み返してみると、谷川俊太郎はエセ詩人という言葉にふさわしくないタイプの詩人のように思いますし、また、権威という言葉がふさわしい詩人とも思えません。単に知名度が高く、人気があるので、一番絞りさんのターゲットになっているような気がするのです。

ただ、私にはうまくまとめられません。さらに話がずれちゃいました。ごめんなさい。
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