批評しましょ[249]
2004 09/14 07:40
田代深子

くそう、出遅れた。

> 244
> 外面であろうとも内面であろうともその好ましいとされている属性を規定するのは属性の
> 持ち主である女ではなくって、属性の買い手である所の男が勝手に決めているのだ、とい
> う更なる欺瞞が待ち受けている

 うん、そう。そうなんだけど、でもがらんどうさんの読みはかなり面白かった。てゆー
か痛快だった、わたし的に。ここらへんとか。

> 243
> これは「女もまた男を選別する」「男も商品である」という当たり前の事実が可笑しかっ
> たんですよね。


 さて、チアーヌさん、あははははははははーしょうがないやねー まあ山田氏の言うと
おり、作品というものは作者の手を放れてしまえばもう取りもどしようはない。持ってい
ていいのは社会的経済的利権としての著作権くらいのもので、「正読」なんてありえない
し、書かれたいきさつなんて、一部マニアにしか関係のないものなんですよ。私は少なく
ともあなた個人がどんな仕事をしていたかなどにはまったく興味がない。あなたがどうい
うつもりで書こうと、作者の「つもり」よりもっと面白い読み方を、われわれ読者は力を
尽くしてすべきなのです。だから心してお書きください。そして思い切りよく手放す。こ
こに名乗りを上げるなら、自分も一読者として解釈してみればいいだけのことで。

> 246
> 上に見るとか、下に見るとか。そういう視線だって、あるようでないんじゃないかなぁと、
> わたしは思います。そのときの状況があるだけ。場面があるだけ。

 「あるようでない」と言ってしまえばだから、「ないようである」ということもまた事
実となる。その二重性を意識することは、おそらく「倫理」のうえで重要だし、作品にもっ
と多層性を与えることを可能にするだろう。べつに倫理的になれというわけではない。こ
の倫理というやつはクセ者なのだ。なにしろ他者最優先なのだから。
 「状況があるだけ。場面があるだけ。」という自己防御の言い訳のなかに、さまざまな
暴力が隠蔽されているのだ、その隠蔽に荷担することによって、自分も暴力を行使してい
るのだということを、常に自覚していく。自覚しながら書き続けていく。それがせめて、
ものを書く人間には必要な覚悟だと私は考えているが、どうだろうか。

 たとえば「理ばかり先に立って、セックスに理屈をつけるような批評というのは、痛がっ
ている相手に無理やり捩じ込んで…」というような、いかにも情緒的な物言いで、言語化
を妨げようとする態度は暴力ではないのだろうか? たしかに山田氏のチアーヌ氏に対す
る書きっぷりは、明らかに頭ごなしでそれこそ暴力的だった。しかし少なくとも真摯に何
かを読みとり言語化していくという態度に、やんわりと素手で口を塞ぎにくるような、そ
れこそエロス的接触によるからめとりは、ものを考えるということすら罪悪のように周囲
を黙らせる。
 セックスは理論ではないかもしれない。しかし作品を読むことは作者とセックスするこ
とではない。それはどんなに望んでも言語によって妨げられる。だから、言語で作品の奥
深く入っていくより他にないのだ、ということを、私は考えている。

 これはロゴス偏重なのか。どうしてもそうなるのか。…こうしたトラップにいつも引っ
かかるから、私はフェミニストではない、といつも言うしかないのだ。

(こうしてばたばたみっともなく生きることは虚しいか? ふん。「虚しくない」と決め
るのは自分しかいないのだから、自分でそれをできなければ、ただもう虚しくなるだけだ
ろう。そうしたらもう「虚しい」なんて言葉も出やしない状態だ。指一本動かす気にすら
ならないだろう。どっちにしろ「虚しい」なんてありきたりで手垢のついたこっ恥ずかし
い言葉、冗談としてしか口にしないし、詩にも使わないけどね!)



ああ まとまりのねぇ文章だなぁ とりあえず仕事に行かねばならん
ここで書いた人! お利口さんに黙って引っ込んだりしないでよねっ
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