批評しましょ[202]
2004 08/21 09:52
一番絞り

>うつむいて
>うつむくことで
>君は私に問いかける
>私が何に命をかけているのかを
>よれよれのレインコートと
>ポケットからはみ出したカレーパンと
>まっすぐな矢のような魂と
>それしか持っていないものの激しさで
>それしか持とうとしないものの気軽さで

>「詩集・うつむく青年/巻頭歌第一連」

>この詩集に特に強く感じられることだと思うのですが、谷川俊太郎には、運命と
>対決するスタンスが常にキープされていると思う。
>それが彼の「幻」のありかたの、不思議な優しさに繋がっているのではないかなあ、
>と思うのですが、僕にはまだ、きちんと語りきることはできません。(ボルカ)

ぼくはこの詩集読んだこと無いので、目の前にあるフレーズからのみお手軽な感想を述べさせて
もらうと、この詩は一言で言って「劇画」です。
若いひとがこういう劇画的美学に惹かれるのが悪いとか、バカだとかいっているのではなく
事実をいってるだけですので誤解なきよう。
「何に命をかけているのか」と他者に問いかけることは、これはかなり相手のプライバシーに
踏み込んだ問いかけです。
もし、見知らぬ相手にこんなきついことを問いかけたりすれば冗談じゃない、脅迫めいたことを言うな、と
無視され突っ返されるでしょう。
ですから、「私」に向かってこのような問いかけをする相手は、「私」にとってただの他人ではなく、
なんらかの関係にあるものでしょう。
仮にその関係を「私」=詩人の谷川、という設定にしてこれを読めば、うつむく青年は谷川の
熱烈な読者ということがひとつ考えられる。
「おまえ、真面目に詩ぃ書いていんのかよー」
「おれたちの気持ちわかってんのかよー」
「真剣に読んでんだけどよ、おまえ、真剣に生きてんのかよー」
ま、わたしのようなカラミタイプのファンてとこです。(笑)
これが「私」(いちおう谷川)の設定した想像上のファンであっても構わないし、現実にそういう
青年がいたとしても構わない。
いずれにせよ、「私」はそう「問いかけられている」と感じている。
しかし、その「問いかけ」は「激しい」けど、結論としては「気軽」なんだ。
なんとなれば相手はカレーパンしかもっていない立場から「問いかけ」ているのだから。
「私」のように社会的立場があり複雑な人間関係の谷間に閉塞してないかわりに、責任も義務も少ない、
貧乏な青年の問いかけは「激しい」けれど、「お手軽」なんだと、言っている。
よれよれのレインコートを着て「うつむ」いてしか、ということはほぼ黙っている青年に
そういう態度をとらせる立場にある「私」は
そういうことを連想し感じている。
そういうメッセージです。
それがボルカさんのいうように、どうして「運命と対決するスタンス」になるのか? 
そこは詩集をとおして読んでないのでわからないけれど、
フレーズの選び方、転換の仕方、改行のし方などからある種の青春アクション映画ないし
劇画調に意図的に構成している感はまぬがれない。そこに若い人は一種の美学を感じてしまうのだろうけど
しかし、このような設定、カレーパンとよれよれのレインコート、うつむく青年...は谷川が仕掛けた
もうひとりの自分、つまり自分を見つめている自分、として設定していることは十分わかっているつもりだけど。
(だから、表題の青年が、どうして「うつむい」ているのか、そこに谷川のなんともいえぬ、うしろめたさみたいなもの
を感じるのだけど...)
で、このあとボルカさんはカレーパンとわたしの詩もどきにあるアンパンとを対比しているわけだが。
その前に、こんなことを書いている。

 ところで、このスレッドには、一番絞り氏の「マンドリン」がアプされているけれ
 ども、彼がこのモデルを「すねかじり」と呼んだのは、別スレで、自分と対立する
 論を展開しているモデル氏が学生である、ということ知った瞬間でした。
 すなわち、氏にとっては<学生=すねかじり>なわけで、それ以上の人格を彼に認め
 る必要を氏は少なくともその瞬間、感じなかったわけです。
 こういうスタンスは、谷川のこの詩集における青年への語りかけとは好対照をなし
 ているように僕は思いました。

マルクスもどき批評をすれば経済的土台関係が観念的上部構造を規定するわけで、ほんとかどうかしらないけど(笑)、ぼくは基本的に学生というのは社会人ではないから、「スネカジリ」です。「スネカジリ」が社会人に大きい口を開くときは、それなりの礼儀をわきまえろということです。そういう古風な儒教観がまだあるものでね、ぼくは。
で、谷川のこの「青年」への語りかけは、このフレーズを見る限り、自分自身への語りかけでもあるわけです。ほぼ、自己弁護の。最終行で青年のその質問が「気軽さ」に拠っていると述べているわけですから。ま、どーでもいいですけど。

  このサイトには彼の「あんぱん」がアップされているけれども、わずかに塩見の利い
  た、しかし基本的に甘いアンコの味が空腹にもたらす優しい自己肯定と、引用した
 「青年へ」の青年がポケットに突っ込んだ、カレーパンのオイルまみれの辛味は、これ
  もまた好対照を成すものだ、と僕は思います。

あんぱんのアンコはそっとなめて甘みを味わうものですが、カレーパンはまさに丸かじりする類のものです。
前者には品があります。後者は生活そのものです。
脂臭くて手が汚れるカレーパンは詩には不向きです。


 あるいは一番絞り氏は、自己肯定のアンコを片手にしか、青年であることができなかっ
 たのかもしれないし、それはあえてカレーパンをポケットに突っ込む青年より、厳し
 い状況にあったということなのかもしれない。

 そういうことは僕には分からないけれども、僕はアンパンを<自分のために>もつ旅行
 者より、カレーパンをポケットに突っ込んだ青年の方が好きです。

 谷川の「青年へ」というこの詩集がサンリオから出版されていることは僕を別の連想へ
 誘うのですが、あるいは砂漠をゆく飢えた旅人に、アンパンを、<僕を食べて>と差し
 出すあの有名なヒーローの方が、一番絞りさんより詩人だと、僕は思います。

この『青年へ』はなかなか面白そうだよね、たしかに。
今度読んでみますよ。
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