ニューススレ[464]
07/11 16:32
もぐもぐ

参考に。

別段どこということはないけれど、
>396
に関係するかも。

ナショナリズムの観念をきっちり考えるのはなかなか難しい。

言語や住む土地を共通する、特定の文化的アイデンティティーをもった集団(くに、民族、ネーション)が、それを支配する他の国家から独立して、自分たちだけの独立した国を形成したい(ナショナリズム)、というのは、20世紀を通して進展した大きなうねりであった。第二次大戦の頃には、せいぜい50幾つかの独立国家しか存在していなかったが、その後の植民地独立運動ラッシュを経て、現在は200近い独立国家がある。この過程で、様々な困難を孕みながらも、このナショナリズムの運動は、「民族自決(権)」として、国際に認知されるようになっていった。

ところが、この権利は、諸刃の刃でもあった。言語と住む土地の共通性で境界線を上手く割り切ることのできない場合は、実際上極めて多い。歴史的な経緯から(先の支配国の行政区分とか)そのような共通性を無視して境界線を確定した人口国家は、多数生まれてしまっていた。これらの国家においては、異なった文化的アイデンティティーを持つ集団を何とか統合するために、共和制を取り、大統領に強い権威をもたせることで、無理に国家的統一を維持していくという形が取られるより他なかった。そのため、大統領の独裁が強くなってなかなか政権が交代しなかったり、その大統領が逝去した時点で、統一が破綻して内戦が始まるパターンが続出することとなった。ユーゴやルワンダの内戦は、その顕著な、そして悲惨な例であった。

同じナショナリズムが、宗主国からの独立の達成という悲願のために、また同じ国内の異民族の排除という悲劇のために、等しく作用する。

この見極めは、とても難しい。

(なお、ナショナリズムは、同じ民族が多数分布する他国の領域を、合併・併合してしまうことの論拠にもなる。ナチス・ドイツが急速にその領土を拡張していったのも、戦争という手段を用いることすらなく、ナショナリスティックな主張を掲げて、同じゲルマン民族が多数居住している他国領域を、合併・併合することによって行われたものだった。)
(また、ナショナリズムが進展していくなかで、いつのまにかそれが人種主義に摩り替わってしまう場合もある。これも、特に無政府的状態が生む、悲劇の一つである。)


これは、当事者の意思というより、事実の問題である面が大きい。言語の異なるものは、その意思疎通は極めて難しく、それに人種や宗教の差が加われば、その齟齬は簡単に回復不能なほど大きくなる。それを無理やりに統合できるのは、経験的な観察によれば、大統領に強い権力を集中させるような、強権的な体制をとる場合だけである(恐らく、言語毎に派閥が出来てしまい、正常な国会運営や、行政機能の遂行が、極めて困難になってしまうからではなかろうか)。その権力が解体すると同時に、再びその言語等の相違による違和感は、分離独立や、排除を求める争いとして噴出する。これは世界の各地で繰り返されている悲劇のパターンであった。

異なる言語の共生は実際容易ではない。米国でさえ、増えていくヒスパニック系の存在をまともに認め、スペイン語による放送等がなされるようになったのは、つい最近になってからの出来事である。米国は南北戦争によって辛くも人種主義は克服したが、言語による差異を克服し、多言語の共生を受け入れることについては、はるかに遅れている。一方の言語を維持しようとすれば、他方の言語との摩擦が生じ、押さえつける強い権力がなくなった時点で、その摩擦は暴力的に爆発する。内戦は愚かだ、他民族を排除するのは愚かだ、ということは確かだが、それが繰り返し生じるのには、現実的に見て、十分な原因があるはずである。

文化的アイデンティティー、例えば、日本というくに(日本語という言語、日本という場所)の大きさ、は、普段の生活の中では特段意識されることがない(外国暮らしを余儀なくされ、若しくはされたことのある、人ならば多かれ少なかれ敏感になるものと推測される)。言語を奪われること、住む場所を奪われること、その大きさは、それを経験したことのないものにとっては、計り知れないほど大きなことかもしれない(自分のこれまでの生活を根こそぎ奪われ、不利な境遇に丸裸で放り出されてしまうのだ。時にはそれは、個人のアイデンティティーすら、危機に晒してしまうかもしれない)。現実的に見ても、明日の生活すら、その仕事のために用いる十分な言語力がなくては成り立たないのだから、不利な言語環境におかれた人々は、ほぼ必然的にその生活状況も悪化するだろう。

明日から公用語が英語とフランス語になり、太平洋の小さな島に強制移住させられたとして、それでも別に構わない、と言い切れるような人もいるかもしれない。けれどもそれは、極めて高い柔軟性を持った、一部の人に限られてしまうのではないだろうか。失うことを恐れる人もいる。また、全てを失ってしまったが故に、もはや闘うことに何の躊躇いもなくなった、そういう人も、恐らく、いる。

勿論、その支配言語を用いる民族が、極めて寛大であり、手厚く諸々の権利を保障し、その生活の質が落ちないように最大限の努力をする、そうした状況も、ありえないわけではない。むしろ、支配民族は、その国の統一と、正当性を維持するために、できる限りの保証を行うことだろう。数世代を経る内に、「アメリカ人」のような、ただ言語とその国のみを自分たちの共通の基盤(アイデンティティー)とする、新しい民族が生まれるかもしれない。それはそれで、一つの解決ではある。
だがまた、特にそのような権利保障が不十分な場合に、その支配を跳ね除けることを目指して、闘いに立つことは、文化的アイデンティティー(言語、土地)を喪失してしまうことの苦痛と不利益の多大さを考慮に入れるなら、必ずしも否定し去ることはできないようにも思われる(時代は変わった、民族自決権はもはや完全に否定された、と言えるだけの特段の事情は、私には見つけられない)。民族を巡る内紛は、政治的理由による内戦や革命以上に、激烈になる可能性を秘めているように思われる。


日本は前世紀初頭から中ごろまで、他民族の土地を占領し、その言語を奪って植民地とするような経験をした。他方、遠くさかのぼれば、絶えず欧米の強国の圧迫に晒され、そのぎりぎりの中で、前近代的な幕藩体制を、近代的な民族国家(ネーション・ステート)に作り変えていく努力を続けてきた。いわば、日本語や日本という土地を失ってしまう、文化的なアイデンティティーを失ってしまう、その恐怖を味わい、また他民族にその恐怖を味わわせる、双方の経験をした。いわば、ナショナリズムという前世紀の大きな渦の中を、身をもって経験してきた。そのような経緯に照らして、自らのネーションにも他のネーションにも等しく配慮するような、そうした位置取りを、多かれ少なかれ、考えてみる必要はあるのかもしれない。


なお、「戦争」という言葉は、武力による紛争全般をさすのに通常用いられるが、基本的には対国家間における武力紛争について用いられる言葉である。内戦や、国連の強制行動は、それとは多少異なった側面を持ち合わせているため、一旦、区分して考える方が適当であるように思われる。
(特に、国家以前のネーションが国家になるために闘う民族独立のための紛争と、既にネーション・ステートとして成立した国家が他のネーション・ステートを侵略・併合するために行う戦争とは、「民族自決」が国家の正当性の一源泉として認められている限りにおいて、区別して考えた方が良いように思われる)
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