07/09 22:29
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午睡機械さん、まず最初に私の考えるアイディンティティと人権の関係について説明しておきます。
私の考えの中では、アイディンティティとは意識するしないに関わらず誰の中にでも存在するものだと考えていまして、例えばそれが目に見えて実感し易いもの(例えば宗教や民族)であればあるほど、それを繋がりとした強固さが産まれ育まれ、そこに抑圧が重なれば重なるほど、その勢いは増す。そうした下敷きを元にして「我々は苦しんでいる」といったふうに民族保護や宗教保護といった運動を展開、納得の行く解答が得られない場合はおろか、話すら聞いて貰えないような状態に陥った時、彼等は独立(戦争)という政治的選択肢を導き出すのだと思います。そうやって抑圧されない共同体・共栄圏を保有するに至った先、さらにその中において、同族内での格差を無くそうだとか、そういった権利主張が新たに産まれて来るのだと思います。
例えばイスラム教国では法典に乗っ取ったカタチで人権その他の権利が守られているでしょう。そういった国々が一同に介した先で唱えられる人権が国際法であり、それだけ下敷きというのは大きいものです。
例として、パレスチナという国を失った時、彼等は真っ先にアイディンティティを唱えた。元は我々の土地だ!ここに住んでいたんだ!それを守る為に起きた戦争は、やがてオスロ合意でやっとのこさ見えてきた和平に向け、アイディンティティに乗っ取った人権を主張した。でも、すぐに破棄され、また彼等は下敷きの元に武器を手に取り権利を主張し戦渦を呼んだ。
人権より国、といった言い方がまずかったですね。
人権の母体としてアイディンティティがあり、その母体は国(安全圏)を希求する。だから人権よりも国(ひいてはアイディンティティ)なのだ。人権の前にはアイディンティティが、あるべき存在として存在しているのだ。そんなふうに書いておけば良かったのでしょうか。
さて。午睡機械さんの考える「それぞれの理念に基づく最大幸福の為なんだから、そういう意味では同じ」という考え。これを聞いていると、イエモンのJAMって曲の歌詞の一部を思い出します。あの偉い発明家も凶悪な犯罪者も、みんな昔は子供だった。それと大差無いんじゃないでしょうか。「要するに、どっちも戦争じゃん?」ってな具合にしか、私には届かない。ただ争うのではなく、何故争うのか。そこを見なければ、解決策も見えて来ないんじゃないでしょうか。
私が見たい百世代先の話とは、百世代先「まで」の話であり、それへと繋げる為には、現在現時点において戦争行為を繰り返す人々にも届く距離の言葉が必要だと思う。
私はアメリカによるイラク侵略を、第三次世界大戦と見ています。新たな宗教・民族・人種の戦いと見ています。レジスタンスが暗躍を止めることの無い、国家対国家ではない新しい戦争のカタチが幕を開けたのだと。それを始めたのはアメリカ、私の挙げる「利権」です。アメリカは民主主義だの何だのと表面上では権利を叫びながら、利権を求める。これは「複数系の原理」を先だって否定した、ということになるでしょう。では、否定された側はどうすればいいのか。
否定を肯定させる為の戦争行為だって、あるんじゃないでしょうか。それが最終的には和解→協議→独立、といったふうな流れを産むんだと思います。だからこそ戦争行為は手段であり過程であり時として必要になるものであり、複数系の原理を唱える上でも欠くことの出来ない必要悪なんだろうと思います。これは決して奨励などではなく、切り離せないものとして割り切るしかないんだと思います。
一方が戦力を保持していれば、複数系の原理は成り立たなくなる。この戦力とは武力に限らない。ケースによっては財力であり知識力である。資本主義の構造は、まさに、それに該当する。最後には皆平等の社会しか無いのではないのか。コルホーズ、ソフホーズの社会しか無いのではないのか。しかし、それが何を産んで来たのかを私たちは知っている。競「争」のある社会が結果として我々を裕福にしてきたことを、私たちは知っている。
保持している戦力を抑制させるだけの何かが必要だということになる。だが、保持に至る過程で、それを否定していることになるのだとも言える。かと言って、保持に至らなければ裕福にはなれない。裕福さ(余裕)が無ければ、そんなことを考える余裕も無いだろう。・・・う〜ん、原罪論の世界だ。これじゃ何も前に進めないな。
じゃあ、ホンダの社長さんの有名な経営哲学から、ひとつ。企業の利益は雇用により社会に還元すべきものであり、そうすることで皆が幸福になれる。このサイクル理論を飛躍させることが、世界平和へと繋がるのかもしれない。では、どう飛躍させればいいだろう。難しいなぁ。
(戦争も競争も、どっちも「争い」だ。戦争が強く否定されるのは、人が死ぬという副産物を有するからであり、それが無ければ戦争も競争のひとつとして認知されていたのかもしれない。つまりは、人の死なない方法さえあればいいということなのだろうか。話し合いの通じない相手が複数系の原理を破壊してきた時、どうする。その破壊に至らないようにする為には、どうすればいいのか。譲歩や妥協等、こちらからの歩み寄りには限界がある。そもそもアメリカという国は建国において侵略が基礎にあった国なのだから、その欲は留まりを知らないだろう。留まりは国家のアイディンティティの否定だろう。この、戦争と侵略を基礎とする国の基礎部分を変換させない限り、戦争は無くならない。まさに人工国家の抱える問題点だ。人工国家ということは、この国のアイディンティティも人工である。作ることを目的として作られたものであり、自然に生まれたものではない。だとしたら、これは変換させられる方法があるんじゃなかろうか。そんな気がしてきた。)