2004 09/26 15:30
エズミ
解剖台の場面で私が感じたことは、死んでしまっても人の痛みは「開放」されないんだ、という事です。「放心」という言葉によって、死んでなお痛みを持ち続けることを予感させ、その痛ましさを抱きとめよう、死んだ人の痛みは消えないが、生きた身にもそれを引き受けよう、というような祈りを坂上ユキの目を「よりまし」にして語っているのだと思いました。
うまく言えないのですが、石牟礼道子に感じる「母性」は祈りの熱意に「あの世もろとも」なところがあって、そこが「鬼」めいた感触がして、尊くもあり恐ろしくもあるのかな。