昔、ネットである人の書いた作品を読んでいたく心傷ついたことがありました。
数首の短歌が書き込まれていて、一つは我が子の靴を見てその成長を思う、といった内容の歌だったのですが、そのすぐ次に書かれていたのが、はらりと散る木蓮の花弁を
石女の乳房に喩えたものでした。
どちらの歌も、それ一首のみであったなら、あるいは、私が目にするのがそれぞれ別の機会であったなら、自分の子を持たない私が読んでも傷つくことはなかったでしょう。こどもの靴を通して母の心情をうたった歌であり、木蓮の白い花弁を鮮烈に印象づける歌であり、それぞれに良い歌として鑑賞できたはずです。けれども、その二首が並べられていたことで、私には
「わたしの乳房は子を産み育ててきたが、無為の乳房は木蓮の花弁のように散るだけだ」
と読みとれてしまったのです。
その木蓮の歌は美しい歌でしたけれど、まるで自分の乳房をもぎとられたような気さえしました。たいへんなショックでした。
私は自分のそうした気持ちを作者に伝えたい思いにかられましたが、それはしませんでした。作者があえてそのような二首を並べたのではないとわかりましたし、その人は、私がそれを言えば困惑しながら詫びてくれたでしょう。
私はしばらくその場を読みに行かないことにしました。そして二首の歌を忘れようとしました。歌は忘れましたが、そのときの印象は強く残っています。
私はあのとき初めて、作品が人を傷つけるとはどういうことかを知りました。
あの人はどうしてあの二首を並べたのだろう、と時折思い返すことがあります。
自分のこどもが成長した安堵と誇りと少しの寂しさとを詠み、それからふと目を移して木蓮の花を見たとき、木蓮の白に無垢を感じ、子育てをしてきた自分の乳房との違いを思ったのかもしれません。
最近になってそう思い至りました。
そうであるならば、この二首が並べられたことも作者の内の無意識の必然であるでしょう。
これは私の勝手な解釈ですけれど、そのように思い至ったことで、なんとなく、こだわりから抜けて少し気持ちが軽くなったような気がしました。
そうしてやっと、私はこの二首の歌を今まで憎んでいたのだということに気がつきました。
二〇〇三年二月五日