詩の彼岸性について
青色銀河団
詩において美とは何なのか、これは絵画において美とは何か、とともに私にとって尽きぬ疑問である。詩は、あきらかに日常の言葉とは違うし、小説とも違う。いうなれば通常とは違う言語のあり方である。わたしは、美学という学問を学んだことはないが、美の源泉を問う詩の美学を考えたいのであるが、これは、たとえば真理とはなにか、とか善とは何かに答えるのと同様に、答えがないものかもしれない。詩において真理とは何か。詩において善とは何か。
詩において美とは何なのか、という問いは果たして成立するか。
問いが問いとして成立する条件のひとつに、問いの意味が厳密に定義されていなければならない点があげられると思う。詩とは何か、美とは何か、が定義されていない限り、この問いは意味をなさない。
美は相対的な概念か。相対的とは比較によって成立するという意味と、主体が異なればことなるという両方の意味を含んでいる。美は相対的なのか。
あるいは詩はどうか。詩は相対的な概念か。こちらのほうがより詩であるとか、誰かがこれは詩であるといえば詩なのか。
詩において美とは何なのか、という問いは、神は存在するか、に似た証明不可能な問いなのかもしれない。もし、そうだとするならば答えもまた信仰の表明である。
わたしは、美とは、彼岸からやってくるものだと思っている。彼岸とはあの世という意味で使っているのではなく、どちらというとプラトンのイデア世界みたいなものを想定している。完全な美は、不完全な此岸においては、気配を感じ取ることしかできない。美は潜在するものだと思う。美は潜在的に現れるのだ。詩に、絵画に、雨に、梢に、空に。
そうでなくて、なんでこれほどまでに美しいものが存在するのだろう。
たとえばサモトラケのニケ像。数千年前の彫像をなぜ今も美しいと感じるのか。美は普遍的なのだ。
美は好みとは違う。美醜の概念が時代により相対的であるのは知っている。
しかし、美はどうしても絶対的なものだと思うのだ。
詩における美は彼岸からやってくるものだ、という信仰表明。