一般的に個性と呼ばれるものは、あまり重要ではないと考えてみる。これは敬遠されがちな全体主義的なものだといえるのだが、一先ず、「個性は重要ではない」として考えてみようと思う。それはウォーホルが掲げた「没個性」とかいうのではなく、個性とは単にDNAの違いであり外見の違いで充分、というスタンスで語る、という意味合いにおいて、重要だと考えない、ということである。即ち、人間の差異というものを考えたときに、見た目の違いが、すでに明らかな個性だと考えるということである。髪型や服装や趣味、嗜好、思想、もっと極端に云えば宗教や性格というものは、人間の枠を超えられないという点で、本来的には大して重要な個性ではないはずだ。それらは、自己愛と虚栄心の産物であり、そのために、とっかえひっかえ繰り返されるものでもあるだろう。
昨日の白が、明日には全く別の黒にすり替わる、何てことはよくあることで、どんな人にでも日常茶飯で起こり得ることではないのだろうか。そのように観念的な場所では、他者と自己の境界が希薄なので、その思想的、宗教的自己をコトバによって確立しなければ、精神的安穏の聖地に辿り着けない、という危うさの中で、コトバに依る表現者(即ち人間一般)は、特に哲学者や、思想家、宗教家、詩人と称される人々は、それこそ言葉通り、必死になって個性を確立しながら、世界から自らを切断しているのは明らかな事実である。凡庸な砂漠の砂粒に陥らないように、必死に自己を磨き、孤独に打ち勝ち続け、ある人は唯一無二の刺青をその身体に刻むように、またある人はコツコツと巨大建築物のような論理的な思想を築き上げるように、その孤独が寂しいとか苦しいとか言うのは、心理的な倒錯である、とでも言わんばかりに、その個を際立たせようと必死だ。勿論、大多数の人が必死にならない、なれないという状況を知ったうえで、それはそれで社会の維持と発展に大きな役割を担う大変重要な仕事であるが、敢えてこの場では、個性を重要とは考えない、というスタンスで考えてみようと思う。これは個性を宝石のように重んじる世界に対する、僕がおったてた小さな中指である。
まず個性というものを考える場合、名前そのもの、そのコトバというものが、他者(=世界)と自己とを断絶するために、ナイフや鋏のような役割を果たしているということを知らなければならない。
そして、次に個性を語る上で大事なことが、「体験」または「経験」というものだろう。我々はコトバ、という共有され、記号化された知識によって、誰かと繋がろうとしながらも(他者と繋がる必要性を感じていないという場合においても、無意識に繋がりを欲望する人々を含め)、大抵の人々において、他者と繋がる手段としてそのあまりにも個人的な「経験」、及び「体験」をコトバにすることで、他者と自己とを断絶しようとする、極めて悲劇的構造の中で、それこそ必死になって、他者と繋がろうとしているのである。ここで確認できる自己、即ち個性によって、またその断絶を実感することによって、我々はある時期に、心に大きなキズを負う、ということが云えるのではないのだろうか。このキズによる痛みほど、明確に個を際立たせるものはない。そして、この心にキズを負うという「体験」は、優れた芸術作品やあまりにも美しい自然にふれたときに起こる「感動」というものに似ている。恋に落ちることも、ずっと心に残る芸術作品も、その瞬間にしか味わえないような自然との出会いも、心にキズを負った状態と同じ「体験」であり、「感動」なのだ。そのキズには快と不快の違いこそあれ、キズであるという点においては、同じである。
例えば中高生のリスト・カットなども、キズつくことで安心する、と云われるようにコトバで自己を確立しきれない、誰かに生かされているという社会的に弱い立場の、不明瞭で不確かで未成熟なアイデンティティの結果ではないのだろうかと推測出来る。彼らの感性が鈍っているのではなく、ある部分の感性が異常に敏感なのだ。いじめによる自殺問題も同じように、個性を重んじる社会的圧力を、青少年期に敏感に感じながら、その責任を問われない不確かな自己形成の途上で、長いものに巻かれるような集団心理が、いじめを惹き起こし、自殺を招いているという一面があるのも確かだろう。他者との断絶を、観念的に理解するのは、容易ではない。
コトバによる自己確立、という安直な安心と共時する、コトバによる切断によって、他者から、その世界から孤立化する自己、という矛盾の中で我々は生きている、ということを今一度、その原点から明確化しなければならないのではないのだろうか。
生まれたときから他者(=世界)と断絶しているのならば、もっとくっきりと自分で輪郭を描きましょう、というのが、自己確立、自己同一性であり、そこにコトバがないと現代人は、困るのである。それが社会性なのだろう。
「個性は重要ではない」と初っ端から大見得を切ったが、ぶっちゃけそれは嘘であるように思えてくる。ただ、重要ではあるけれど、個性を意識することは、それほど重要ではない、と謂えるのではないのだろうか。生まれた瞬間から、個性というものを意識しなくても、全ての人間が個性的だ。「没個性」という発想も、当時のアメリカをはじめとする世界に対して、ウォーホルがおったてた中指だったのだろう(それはそれで巨大なナイフで世界を切りつけたようなものだったけれど)。そして、その個性を理解するうえで、最も使い易いものはまずコトバだ。いま日本語でこの文章がかいてあるように、世界中には今現在、五千とか七千とか云われるほど言語が存在しており、この日本語においてさえ、方言や世代によって異なる言語を介してコミュニケーションをとっている。そして、これもひとつの個性になり得るものだ。個性がコトバなのだ。
ここで本題である、「詩を描く、という個性」を考えてみる。まず何故、詩を描くのか。これを突き詰めていくと、記号化され得ない(だろう)ものへのフェティシズムの影が、潜んでいることがわかる。
『今からおよそ四百年ほど前、インドにラッジャブという宗教詩人がいた。あるとき、彼が神の啓示を受けたといううわさが広まると、各地から人々が彼のもとへやって来てたずねた。「あなたは何を見、何を聞いているのか」と。詩人は答えた。「私は生の永遠なる戯れを見ている。天なる声が、いまだ形なきものに形を与えよ!言葉に表せ!と歌うのが聞こえる」と。』(『ヒンドゥー教』クシティ・モーハン・セーン著:中川正生訳)
インドの宗教詩人ラッジャブという人は、そのコトバの持つ呪物性に気が付いていた。記号化され得ないものを記号化するという、数学的な心理学上の性的倒錯、所謂「フェチ」が、我々の目のまえでフェロモンを振りまいて踊っている。ここに人間の持つひとつの本質を垣間見ることが出来るのではないのだろうか。パズル的に、もともと存在するものを再現前させるという意味においても、「記号化する」とは、プラトンの云うところの「イデア」(*1)という考え方に根ざしているのであり、それを無意識にしろ、意識的にしろ、誰もが必要としているのであると、謂わざるを得ないのではないだろうか。
(*1)註:「イデア」とは簡単に説明すると、人間が鳥を見て鳥だと感じるのは「鳥」というイデアが実存するからで、あなたと僕は違う存在だけれど、「人間」のイデアを共に分有しているということだ。観念論や実存論は、そのイデアの系譜として考えられる。
そういった認識をふまえた上で、コトバで何を表現しているのかといえば、承知のようにそれは自己という「イデア」であるのだろう。「イデア」を表現するためのコトバなのである。ただ、「イデア」の創始者であるプラトンですら、「イデア」そのものを語りつくしてはいないという、パラドックスがそこには待っている。その「謎」そのものが、求心力となっているのだ。
宇宙とは何か?人間とは何か?という人間には今現在においても答えようのない「謎」という、求心力に突き動かされている。それに従う従わざるではなく、本来的に生きるということが、死を死ぬまで永遠に続く渦のように、まず「謎」なのである。呼吸をする、歌をうたう、絵を描く、詩を描く、というのは、「渦」そのものであり、永遠の「謎」であるのだ。だからこそ、詩を描くのである。人を喜ばせる、というのはそのもっと後の段階で、他者と繋がりたいという内的な欲求であると考えられる。勿論、描く、うたう、という身体的、原始的な欲求があり、それ以前に、「生きる」という何だかわからない微細で且つ巨大な渦(=闇=光源)が、その口を、大きく開けて寝そべっているのである。
「生きる」ということは、呼吸であり、食事であり、睡眠であり、セックスであるけれど、それと同じように、感じ、考え、それを描き、うたい、伝えることで、その渦を確認しながら、同時に自己の輪郭を際立たせて確認し、私だけの、私のための、私にしか知ることが出来ない「渦」そのものを、それこそDNAのレヴェルまで掘り下げるように、その「個」を深く表現しながら「生きる」のだ。
ここでもう一度、「個性」というものを考えたとき、まず、他者の考えも自己の考えも平たくすれば人間の考えであると謂えなくはないだろう。私の考えた事はすでに私のものではないし、それは人間の考えとして、マクロに集約される。しかしながら、私は私であってすでに私ではない、という考え方は窮めて危険な考え方であると同時に知らなければならない。ここで間違ってはいけないのが、個が存在しないのではなく、きちんと存在しているという事実を、はっきりと認識しなければいけないということである。そうでなければ、すぐにでも「私は違う」という批判の声が聞こえてくるだろう。そして、このような落とし穴にはまってしまったような思考の抱ける者が、あらゆる社会に適応出来ない仕組みになっているのが、現代だ。「個性は重要ではない」が、その実存をはっきりと認識しなければならない。
人々は、この連なる瞬間を生き抜くために○○○○某という名を名乗り、その言葉によって世界との断絶を認めさせられたうえで、所在なさげに人間という凡庸な「イデア」を引き受けながら、何とか現世に適応させて生きている、と謂えなくはないだろう。それは狂人や天才などの特別な存在に限らず、誰もが同じようにその痛みを感じることが出来るはずだ。その痛みの「イデア」を、結局のところ共有しようとするところに、コトバがあるのも確かだ。どんなコトバの向こう側を覘いてみても、そこにあるのは孤独ではないのだろうか。そして、そこには必ず誰かがいる。
野球場でたくさんの人の中で好きなチームの応援をすることも、友達と居酒屋でお酒を呑んで馬鹿騒ぎすることも、都会の雑踏の中で好きな人の手を握ることも、電話で誰かと話しているときも、暗い部屋でひとりキーボードを叩くことも、山の頂から、夜景の灯りの一つ一つを感じることも、総じて孤独の痛みを和らげる行為なのではないのだろうか。あの人は友達がたくさんいて、結婚もしているし、子供もいるから孤独ではないと、云えるだろうか。答えは否、である。孤独である。
詩を描くという行為、コトバで何かを表現するという行為が何千年と続けられるひとつの理由に、孤独の痛みを忘れるくらい人々を偏執させる、呪物崇拝的な、「謎=生きる」というものに対するフェティシズムが潜んでいる。宇宙の謎が全て解ければ、人は生きる必要性を感じなくなるだろう。
そして「詩を描く、という個性」は、「コトバを使う、人間」と同義であるとも思う。しかし、人間というのは孤独であるが故、その痛みを敏感に感じとる感性があるが故に、詩を描き、コトバを放つのだ。そこには蕭然と臆病が寝転んでいるが、臆病のどこが悪いのだろうか。臆病を忘れるくらい、その痛みを忘れるくらいコトバに狂う人間が、そこにはいるだけだ。生を粗末に考える人間よりも、よっぽど優れている資質ではないのだろうか。死を恐れ、生を敬う気持ちが、コトバや絵画や彫刻や音楽には、原初的に備わっているのを感じとれるはずだ。詩を粗末に考える人間は、生を粗末に考える人間だ。人間が重要なのではない。個性が重要なのではない。コトバを使うこと、詩を描くということが重要なのだ。
そういった意味で、私は「詩を描く、という個性」を、深く尊重する。それと同時に、私自身もそうありたいと思う。