北と南のあいだ
とうどうせいら


雨が降ってくると
金沢を思い出します。
金沢は年間六十日しか
晴れの日がありません。
大体曇りか雨です。

空はいつも
ブルーグレイの薄雲がかかっています。
雲のない日も、
空は水色に水分を思いっきり含ませて
限界までのばした、
頼りない色の青空が広がるだけです。

北九州の空は
くっきりしたスカイブルーで
きらきらした光の微粒子を散らしながら
(わたしにはそういう風に見える)
高い高いところで
天幕を広げています。
湿度が低いので、
からっとした爽やかな風が
白い雲を刷いていきます。

福岡の空はいつもきれいです。
わたしはここに来て初めて
青空とはこういうものなのだと 
ちゃんと知ったような気がします。
いつも上を向いて歩いているので
風船ちゃんとあだながつきました。
細くてぺらぺらした体の
わたしが
空を見上げているのを
遠くから見ると
その内ふわふわ浮かんで昇っていきそうだから
というので、
そういうあだなになりました。
空があんまりきれいなので
見とれているのだと
まだちゃんと口では説明できずにいます。

子どもの頃は、
朝起きて雨が降っているのが大嫌いでした。
ずっとここにいたら病気になると
ほんとに思いました。
でも高校に入る少し前ぐらいから
朝、
目覚める前に
しとしとしと

柔らかいものを打っているような音が
枕元で続いているのが聴こえると
安心するようになりました。

以前、
落ち込んだ時に何を聴きますか
と誰かに訊かれて、
他のみんなは曲名を挙げていたのに
わたしは知らずに
テレビもラジカセも消して、
一人で雨の音を聴く
と答えたら、
それは珍しい答えで気に入られたようで
その質問をしてきた人は
今もわたしの詩を読んでくれます。

北九州はとても住みやすい
いいところだけれど
晴れの日
特に真夏の
照る日が続くと、
時々目眩がしてきます。
陽射しが強くて
外に出ると重たく
肌を刺す感じがあります。
日の光に
重さってあるんだなぁと思いました。
九州の人は慣れているので
汗はあんまりかきません。
わたしばかりが毎日汗だくで
水分がどんどん吹き出して
からからになっていく気分になります。

浜に打ち上げられた魚みたいだなぁ
って思います。
雨が降ってくると。
ちょっと
おっ
て思います。
みずみずしさが戻ってくるような
感じがします。
それは
ただいま なのか。
おかえり なのか。

ふるさとは
わたしにとって
苦手な場所でした。
長い冬に降り篭められた繊細な神経で
暗い空の下でお互いを勘繰る
優しく弱い人達の集まりで
それは
自分にもとても似ていたので。
悲しいことも
思い出すので
わたしは多分、
当分金沢へは行きません。

でも好き嫌いとは別に
雨は
わたしの体を潤しては
大丈夫だよと
繰り返してきます。
ずっとずっと
前から。
わたしがひとになって生まれてくる前から
刻まれているみたいに。

雨の音は優しいと気付いたのは
わたしが不細工だということに
泣いて
顔を洗って
腫れたまぶたを開けて
庭を見た日でした。
毎日まいにち
些細なことが
どうしても許せなくて嫌でした。
血の滴るような感受性を持ちながら
自分に向かってしかそれが開かれていない
十五歳の朝でした。

世界も泣いていると思いました。
椿の葉が滴っていました。
泣きながら呼吸していると思いました。
わたし一人が泣いたぐらいでは
この雨に
紛れてしまってわからない。
誰にも気付かれない。
誰かが知らないふりをしてくれることに
その時は慰められました。

福岡はあったかいと思って
移り住んできたけれど
実は海に面しているので
冬は結構寒いです。
風が吹いて嵐になるけど
積もることはあんまりありません。

十二月になったら
今度は雪が降ってきます。

今は
雨も
雪も
青空も
乾いた風も
ちゃんとみんな受け止めます。

わたしの頭の中には
青い空と
雨がちな曇り空が
半分ずつ
広がって

北と南の両方に住んで
よかったと思います。







自由詩 北と南のあいだ Copyright とうどうせいら 2006-11-06 18:29:06
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