遠い眺望
前田ふむふむ

       
      1

ゴルゴダの丘の受難が、針のように、
人々の困惑の眼を包んで、
砂塵の闇に、厳かに、消えてから、
すべてを知った空は、
瞬きもせずに、顔色を変えることなく、
鮮やかな蜃気楼の夢のなかに沈んだ。

ひかるみずの洗礼を享けて、信徒の経験を旅する、
遠藤周作は、茶色の肌を晒して、
みずのない、不毛の隆起を素描する、
乾いた聖地の眺望を嫌った。
それは、妙なる神学の音階に、
低音の疑いを、差し挟んだのではなく、
よわい胸を透過して、気が失せるほど殺伐とした、
荒野の唇にみずを欲したからだ。
彼の刹那を、ガンジス河の濡れた河岸で、
雨に酔ったカーストの色彩たちの湿り気が、
熱い鼓動を叩き、
ふかみどりに蔽われた、
森の涙腺を、彼は走ったのだ。
その戯れる浪漫を。

      2

8月某日、
長崎の空は、夏を、灰燼に砕けた街にくばり、
群青を、更に深めて、視線を、草莽の皮膚に溶かした。
敬虔な黒い顔をした女たちの、短い行列が、
聖地に背を向けて、ひたすら、腫れた稜線を歩む。
ひかりを避けながら、薄れゆく意識のなかで、
神の福音を渇いた眼に、飲み干して。
女たちは流れる。
失われた、わが子のみずを求めて。

      3

10月某日、
ごく稀な、砂を潤す白い驟雨が、
信仰の壁を濡らす。
岩は、滑らかに色づき、門は、やわらかく貞操を守る。
ふかく暦を染めた聖地は、昏々とみずに沈む。
熱い祈りは途切れることなく、
あらい街の吐息は、隈なく屋根を持たない底辺まで、
止まった河に、足を浸かるが、
古代の汚れを洗い流すことができず、
エルサレムの旅立ちの門は、
終わらない冬を彫りこんで、
静かに、愁然としたみずに、もえている。

子供たちは、青い空の優しさを知らず、
遺恨の歳月を、父母の貧しい窓に学び、
高貴な神学を、沈む夕陽を飲みこんだ、
兵士の推敲のなかで見つめる。

三つに束ねられた孤高のうねりは、
正確な平行線を引いて、図形は宴を、交じり合わせることなく、
茫漠とした広野の殉教の煙を吸い込んで――。
子供たちは、ほそい春の波紋を癒しながら、
聖地に背を向けて、歩みつづける。
自らの赤い血を守るために。
      
    ・・・・・
 饒舌な海鳴りが、砂塵の原野で響く。
     遠い眺望が、短調の記憶に佇む。
        聡明な空は鳥たちのために浮んでいる。

       4
 
 滔々と溢れる、懐かしい空を見上げると、
    帰国の手土産に、差し出した夢を、
      やわらかい雲が、大口をあけて啄ばんでゆく。
    
   日本橋から銀座へ、ゆるい曲線の道路が、
     ふたたび、
   老紳士の杖のさきに、ひかれる。
   滑るようにすぎる、
   汗を弾いて、笑い合う女子高生に導かれて、
   穏やかな陽だまりが、穴を開けて、
   新しい追憶を、語りだす。

      その可愛らしい涼しさに、
  おもわず、遠藤周作は、くしゃみをする。





自由詩 遠い眺望 Copyright 前田ふむふむ 2006-11-01 00:20:27
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