611号室への招待状
塔野夏子

昨日は其処には無かった窓から
招待状を携えて
使者の使者があらわれた
見おろすと路上はすっかり鈍色にびいろの流動体と化していて
あちこちのビルの歪んだ非常階段に
コロスが点在している
何を歌っているのかは鈍色のざわめきに紛れて
よく聴きとれない
それらのことを私は昨日其処には無かった窓から
確認すると
無言で招待状を受け取った
使者の使者も無言で立ち去った
そのときその背中に翼があるのに気づいたが
両方ともすっかり泥水で汚れていた
かまわないのだろう
どうせたぶんあれは飛ぶための翼ではない
昨日は其処には無かった窓から
もう一度外を見やると
点在するコロスたちのあいだに
幾本も灰色の虹が架かっていた
鈍色の流動体はところどころ少しずつ固まりつつある

私は招待状をゆっくりと破り捨てた
所詮応じられない招きだ
そのことは使者の使者も
何処かで様子を窺っていたに違いない使者も
その元々の送り手も
よく承知している筈だ

破り捨てた招待状は空を舞い
やがて固まりつつある鈍色の流動体へ
吸い込まれていった
最後の一片が吸い込まれると
昨日は其処には無かった窓が
すっと消え失せた

とたんに
部屋にはコロスの震えるような歌声が満ちた
それはとても美しく響いたが
何を歌っているのかは やはり聴きとれなかった

私はそれを長く聴くことなく
部屋を立ち去った
私が閉めたドアもまた
私が路上に降り立つ頃には
きっと消え失せているだろう



「コロス」:古ギリシャ演劇の歌舞団




自由詩 611号室への招待状 Copyright 塔野夏子 2006-10-15 11:08:31
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