■わたしは誰だろう。
千波 一也

タイトルだけ見たら、危ないですが、

記憶喪失の話ではなく、
酒乱事件の話でもなく。

さて、本題。

「わたしは詩を書きます。」

ここでいう「詩」という言葉の定義について、
わたしは答を持っておりません。
一応の、かぼそい見解は持っておりますが、
ひとに発表できるほどの強度ではありません。
それに加えて、
わたしの書くものは詩ではない、のかも知れない。
そんな思いも抱いております。
が、しかし、
それならばわたしの書いたものを何と呼ぶ?
そこで、
便宜上の手段として、
あまり深く考えることをせず、
「わたしは詩を書きます。」と言い放ちます。

そこで問題がひとつ。

「詩を書くわたしは詩人である。」

人という文字が加わっただけなのですが、
詩、のように、便宜上の手段として拝借するにはやや重い。
それに、
たしかにわたしは詩をメインに生みますが、
雑文・エッセイも書きたいし、短歌の楽しさにも沈みたい。
それでも比重は圧倒的に詩の方が大きいのだろうけど、
基本的に欲張りなので、
あれこれ手を広げたい。
そうすると、
「わたしは詩人である。」という名乗りは、
なお重くなる。
だからわたしは名乗らない。
詩人である、とは名乗らない。

あ。
これを読んでいるあなたが詩人と名乗ること、
それについて批判するつもりなど無いのですよ。
あくまで、
「わたしは」という限定の語りです。

さて、戻ります。

「それならわたしは誰だろう。」と。
タイトルにもある通り、
そんな疑問が芽生えるわけです。

名乗らなくても良いではないか。
芸名(!?)があれば良いではないか。
生みのこころがあれば良いではないか。
などなど、
わたしはわたしを説いてみましたが、
名乗れるに越したことはないよね、と、
いともあっさり説き伏せられて。

「わたしは誰だろう。」

で、
実は答を持っていたりします。

長年、わたしはわたしをこう呼んでおります。
「うたうたい」と。
このように名乗る御方は結構おいでですね。
それゆえ、珍しいことではないのですが、
現時点、そしておそらく長きにわたり、
わたしはわたしを「うたうたい」と呼ぶでしょう。

言葉をうたう。

詩という枠を借りて、
短歌という枠を借りて、
散文という枠を借りて、
言葉をうたうのです。

ここまで延々と読んでくださったあなたには、
いささか物足りない結論であるかも知れませんが、
こういう物事について、
たくさん考えて、考え過ぎて、
どうにもならない状態に陥っている人がいるかも知れないな、と。
そんな誰かにとって、
この駄文は果たしてどこまで役立つかはわかりませんが、
無責任かも知れませんが、
これもひとつのうた、と思って。
気分に合わせて聞き流すもよし。
立ち止まるもよし。
うたはいつも、
そういうふうに流れてゆくのではなかったでしょうか。

おっと、真顔になるところでした。

ともかく、そういうわけで、
わたしはうたを続けます。
もちろん、ここに記したものたちが最終結論であるはずもなく、
ときどき、あらためて考えてみるつもりです。

どうぞあなたも御自分のペースで。


うたは世につれ、
世はうたにつれ。
うたはとこしえ、
はかなき諸手に。



散文(批評随筆小説等) ■わたしは誰だろう。 Copyright 千波 一也 2006-09-16 16:00:58
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
【お雑煮ふぁいる】