黒蝶
杉菜 晃

健康な人には医者はいらない。
いるのは病人である。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである。
     (キリスト、新約聖書ルカ5:31-32)



黒蝶が夏の光の中を舞つてゐる
影と本体が定めなく揺れて
それをパジヤマの女が追つていく
黒蝶と女は森のなかに消える

やや遅れて彼が森に入る
彼は自分が女を追つてきたのか
黒蝶を追つて来たのか
危ふくなつた

木下闇の黒蝶はもう視覚では届かない
パジヤマの女も似たやうなものだ
彼は木漏れ日を頼つて
捜していく

大きな倒木に日が注いでゐた
そこに黒蝶がゆつたり羽を開閉させてゐる
彼は密やかに迫つて
蝶を手中にした

何と女だ しかも冷たい
彼は全身を包むやうにして擦つてやると
血が巡つてきて 黒い睫毛を開いた

その女を横抱きにすると
彼は森を出て白衣の裾を風になびかせて
歩いていく
「もうホルマリンの匂ひは厭」
女は脚をばたつかせて訴へる
「今度は海の見える南向きの部屋だ」
「青い蝶がゐる?」
「青い蝶はどうかな しかし菜の花畑に面してゐるから
春になると白蝶と黄蝶が賑やかだ」
「あの黒蝶どうしたかしら」
「森に逃げて行つたよ だから君の病気は治つたんだ」
「駄目よ そんなこと言つちや 差別よ 黒蝶はね 
はじめからゐなかつたの 私の夢の中にゐただけ」
「ぢや もう逃がさないやうにしてくれよ その度に
追ひかけていかれたら 叶はないからね」
「はい はい 先生 お手数かけましたね」
「いいえ どういたしまして 黒蝶さん」




未詩・独白 黒蝶 Copyright 杉菜 晃 2006-09-12 14:45:16
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