ムーンは名犬ではなかった
おれが不良にからまれたとき
まっさきに逃げた
のびているおれのそばにきて
目のよこの傷をなめた

ムーンは名犬ではなかった
堀内と土井と高田の
サインの入ったボール
親父がだいじにしてたやつ
投げたらとってこなかった

ムーンは名犬ではなかった
おれが家出をしたとき
土手までしかついてこなかった
腹がすいたので帰ったら
おれより先にめしを食っていた

ムーンは名犬ではなかった
おれが空き地で拾ってきた
雑種のくせにまだらなおしりははげていた
なんの芸もおぼえなかった
教えもしなかったけれど

ムーンは名犬ではなかった
おれはふられて死のうとおもった
なにも言わずにとなりで寝てた
頭をなでると片目をあけた
なんどなでても片目をあけてくれた

ムーンは名犬ではなかった
友達の犬は名犬だった
モーツァルトをきく犬だった
どこまでも車を追いかけてくる犬だった
おれのうちにも犬がいるとは言えなかった

ムーンは名犬ではなかった
猫ににらまれ後ずさった
つれてきた彼女にむかって吠えた
買ったばかりの靴をよだれだらけにした
迷子になると帰ってこられなかった

ムーンは名犬ではなかった
よれよれに老いて糞尿をたれながした
そばにいてもしっぽもふらない
子犬のころからいっしょに遊んだ
おれはなんどもなんども失恋した

ムーンは名犬ではなかった
もう名前を呼んでも返事もなかった
だいたい自分の名前さえ知っているのか
なのに頭をなでると
やっぱり片目をあけた

ムーンは名犬ではなかった
だけどおれは名犬などいらなかった
ムーンでなけりゃいやだった
なのにどんなに頭をなでても
もうムーンは片目をあけなかった

ムーンは名犬ではなかった
おれを待って駅でおりこうなんかじゃなかった
ばかな犬だった
飼い主によく似ていた