山田せばすちゃんショウ その3
山田せばすちゃん

ついに満を持していとうさんまでが(笑)登壇。原口昇平が佐々宝砂へのポイント投票時のコメントに「触発する批評」の宣伝をさりげなくやっちゃったりしているが(笑)「触発〜」ですら為しえなかったこのサンヨーオールスター並みの豪華布陣に、今頃サイト主催者である片野氏は「滂沱の涙、座りション(以下略)」を超えた事態になっていちゃったりなんかしたらどうしようって、まあ俺が片野家の掃除をするわけではないのでそんなことは余計なお世話かもしれないけれど。ともかくここんところの「現代詩フォーラム」は詩人、もしくは詩人になりたい人必見である、と俺は声を大にして言いたい、ここで言ってても仕方がないのかもしれないけれど。
時々思うのだけれども、ネットというこの環境は詩を書いたり詩を論じたりするには凄く便利なツールであって、何しろ今回のように各地に在住している人々が一夜のうちに同じテーマについて語り合える、なんてことは紙媒体の世界ではまずありえない。このスピード性、同報性こそが、ネットで詩を語る上での最も大きな利点であるという事を俺は「群青賞」のお世話を始めたあたりから痛感しているのだ。
しかしながら、ネットにはネットならではの弱点も、やっぱりあったりするわけで、その一つがネット上の言説は実は全部「フロー」であって、「ストック」ではないという一点だったりする。つまりネットには「蓄積」がないのだ。そして「蓄積」がないからこそ、ネット内で詩はいつまでもおんなじところをぐるぐるぐるぐるとめぐり続けているだけだったりするのだ。
いつの間にか本人が投稿を削除してしまわれたのか、何があったかわからないうちに消えてしまって今は参照する事が出来ないのだけれど、つい最近もこの現代詩フォーラムのこの批評・散文・エッセイの欄に某氏が「批評と自意識」について所感を述べられた。失礼な言い方をあえてさせてもらうけれどそのずいぶんと「素朴」な所感…作品の批評をされると自身を批評されたような気がしてしまい、多少くじけたりするときがある…と同じような論旨の発言を、俺は今はなき投稿サイト常盤荘で実に「俺に向かっての非難の発言」として見たことがあったわけで、そこいらは佐々宝砂曰くところの「レイプ」の常習犯であった俺の不徳のいたすところであったのだけれども、ともかく、本現代詩フォーラムの批評・散文・エッセイ欄に俺が投稿した拙文『誰か私たちの行いに何か正しい名前をください』は、実はもともと常盤荘のために書かれたものの再投稿であったりするのだった。この手の所感を述べられる方にはぜひ俺のこの文を読んでほしいのだ、と俺は思ってしまったのだ。
結局、というかこれは憶測ではあるけれども、原口昇平の論考「まず、ないものねだりをしないこと」も俺のこの再投稿した文に触発される事で書き始められたのだと、もししたならば、一体全体かつて常盤で行われ、一定の成果を得たはずのあの議論はなんだったのだ?もし常盤荘が現存していたとすれば、俺は『そんなことは常盤荘というサイトで既に何年か前にこれこれという過程を踏んで議論されている事なのだから、そっちに当たってほしい』旨を、どこか伝言板にでも書いておけばいいだけのことではなかったのか?そして紙媒体ではそれは至極当然のことだったりするという現実を、俺たちは忘れてはならないのではないか。
参照したい議論、参照したい詩があっても、それを次回に探したときには掲示板の過去ログに流れて消えてしまっていたり、ひどい時にはサイトそのものがなくなっていたりする…その蓄積のなさゆえにネットで詩を書く、詩を論じる場はいつまでたっても同じところをぐるぐる回り続けているしかない。俺はネット詩という言い方は嫌いだけれども、先日紙媒体で活動されているある詩人の方に『ネット詩には進歩というものが見られないよね』という旨の発言をされたときに、ネットを主戦場に選んでいる身として何か言い返したかったのだけれども何も言い返すことが出来なかった。いや、ネットをツールとして使っている詩人のそれぞれに進歩がないというわけではないのだ、それぞれがそれぞれに精進して努力して、それぞれが進歩・成長を遂げているであろうことは、まったく想像に難くない、それでも、ネットという場全体を見回したときには、その進歩が酷く鈍い、もしくは見えづらいのだ、ネットの一番の武器がスピード性だと言うのにも関わらず。なんとならばネットというツールのもう一つの利便性、参加のし易さ、によって、ネット上には後から後から詩を書く人々が詰め掛けていて、それは紙の媒体からすれば多分珍しくもうらやましい事態であるからこそ、かの紙媒体の詩人は半ばやっかみ半分で俺にそういうことを言わざるをえなかったというのもあながち邪推ではないだろうし、いやそれはともかく、かつて俺たちの間で行われた同じような議論が何度も何度も繰り返し後から参入してきた人たちの間で同じように行われている。そしてたとえそこでどんな驚くべき結論、画期的な詩の理論がもし、生まれたとしても、それはそこで終わってしまい、次の世代に持ち越されることは、ネットというツールの構造上きわめて難しい事態だったりするのだ。
後からネットに参加した連中に例えば俺たちは詩のこんな問題についてこんな議論をしていたのだよ、と指し示す事が、いや、それを持って自らを斯界の権威としてでっち上げようなんて気はさらさらないけれども、そういうことができれば、ネット上の詩は相変わらずぐるぐるぐる回り続けているように見えながらも、その実螺旋階段を上るようにゆっくりと進歩して行ってくれたりするのではないかなあ、などというのはやはり俺の夢想でしかないのか?
それでも詩作品をストックしよう、アーカイブを作ろうという動きは詩人ギルド、あるいはPJのライブラリによって少しづつではあるけれど始まりつつある。ならば次は詩をめぐる議論、その歴史をストックするべきなののではないのか、などとこの前俺は『触発する批評』の主宰ななひとさんと少し話してはいるのだけれど、それが『触発する批評』でなくともかまわない、たとえばここ、現代詩フォーラムで、詩をめぐる議論そのものが整理されストックされて、いつの日か「そういう類の議論は既に現代詩フォーラムでなされているから見ておいでよ、」といえる日が来ればいいなあ、座りション(以下略)している場合ではないかもしれませんよ、片野さん(笑)などと主宰に責任転嫁しつつ、今夜の俺は今から飲み屋方面へと消え去るのであった。
この項続く(といいなあ)


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃんショウ その3 Copyright 山田せばすちゃん 2003-07-30 01:38:37
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