いとう「インターネットの閉鎖性」
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インターネットが閉鎖的ってどういうことだ。えー? と、いとう氏の「インターネットの閉鎖性」を見て思ったんだが現代詩フォーラマーのひとたちが今、見る限り20ポイントぐらい付けてるのでナンダすげえなあ。そんなに閉鎖的? で、うかうかしてたらもう、反応めいたものも投稿されていて、じゃあいいやと思ってたんだけど考えた時間が無駄になるのでやっぱり書きます。
とはいえこの文章、「作者より:」によると3年ぐらい前のものらしくて、そんな古くさい話をなんで今更書いておるのだろうということでいとう氏の意図が読めないのがまずあるんだが、いとう氏の意図! ぶはは! オヤジか、おれは。もうなんつーのそのインターネットが閉鎖しているとかそういうのは、インターネットの掲示板が便所の落書きとかいうぐらい古くさい話だと、おれは思うんだけどなあ違うのかなああんなにポイントが……。実はうらやましいと見た。
それはともかく、なんで閉鎖的だと言われまくるのかといえば、「(開放的と思われているが実は)閉鎖的」みたいにはしょられてるからであってどうも一般の見方が開放的なんだなコノヤロウという気概バンバンなんだが実際何年も前から閉鎖的だ閉鎖的だと言われ続けているのでもう、インタネになんかかかわりもしない一般のひとらはそこそこ閉鎖的だと思っちゃってるんじゃないか。そこをまた、3年前の文章引っ張りだしてきて閉鎖的だといわれちゃインタネが泣いちゃうよね。
というわけでおれはインターネッツがいかに開放的かということを書いていきたいと思いますが、多分途中で変なことになります。
とりあえず前述のいとう氏の文章を参照してアレコレ書こう。文章を参照! ぶは……もういいですか。なんというかそのー、とりあえずインターネットに接続するにはパソコンが必要でどうのこうののくだりが一番違和感が。まるで地上波放送を見るためには高価なテレビが必要で……と言われてるような違和感。もうそろそろ血で時なんですけどね、変換できないじゃないか。地デジ。3年前がどれだけネットにアクセスしづらかったか、もうおぼえてもいないけど、今となっちゃ普及率が確かすごいすごいパーセントであるところの携帯でネットが見れるわけなのでそういう空しさはないと思うんだ。その前に安価なパソコンもあるっちゃあるけど、もうネットすげー普及してるっすよネットな感じだ。
詩のコミュニティでいろいろ苦戦したあげく、詩のホームページを作っても訪問者がいないみたいなことも書いてあった。それは詩だけに限った話ではないのでは、とも感じたんだけどこれは掘り下げても骨しか出てきそうにないのでやめておく。「誰も訪れてくれない…。」の部分に非常に哀愁が漂ってておれなんかもう涙でキーボードが滑ってうまくタイピングできませんけどね。ほんとうに。つーかこれも3年前と違って今はホームページがほとんどブログブログだから、また違ってくるのかな。
あと最後にこれはおれの読解力の問題だが、「インターネットの閉鎖性 2」の上から2番目の段落がいきなり難しくておれにはよくわからなかったよ。どうしようか。
さて、A氏にまつわるエトセトラからじぶんの書きたい方向に持っていこうとしてるというかそれは大分前からやってるんだが、そこに書かれているA氏のアレコレな悩みの根底にはインターネットじんノットイコール現実じんみたいな図式があってそれが上から目線だよねどうも。わたし現実の世界からきたんだけど、どう、パソコンの中のひとたち? 的オーラがすごいよ。もしかしたらピュアに勘違いしているのかもしれないけど、インターネットじんはプログラムでないんであって、たとえば現代詩フォーラムで言えばおれ以外のすべてのインターネットじんも間違いなく人間が操作してるものであってプログラムではないと。そういうホラーならありますけどね。出会い系のサクラでさえ人力サクラだよ。だけどそれら、プログラムではないヒューマンの集合体、を、パソコンを通して見ているという、別に感じなくてもいいようなリアリティーを感じ取るから閉鎖的だと考えてしまうのではないかねと思うわけだ。それって現実前提じゃん。現実ありきのパソコンの中ワールドじゃん。そう感じている限り閉鎖的もへったくれもないんだよ。あるいは思った以上にチヤホヤされないから閉鎖的だなんて思うかもしれないがそれはちょっと論外だ。
プログラムどうこうとか書いてるとプログラムも組めないおれは頭がこんがらがってくるので、いとう氏の比喩を拝借すると海(ネット)で陸(紙媒体とかリアルワールド)だな。素潜りどうのこうのと書いてあったが、おれはA氏が潜っているようには見えてなくて、遊覧船の、甲板から船底を貫いたガラス板をご覧になって時々餌を撒いてるだけのひとにしか見えてないというわけ。でなんか餌にあんまり魚が寄り付かないから、なにこの海! この魚たち! 閉鎖的だわ! って怒ってる人にしか見えないよ、なんか婦人にしちゃったけど。
このように、ネットを閉鎖的だとする大概のひとたちは陸から海をみてものを言ってるように見える。水陸両用、エラもついてるサハギンのくせして海は広大で深くて怖いと、怖いというのが嫌だから閉鎖的であると。おれはその例えでいくと陸のほうがよっぽど怖いんだけどね。ともあれ仮に陸から海を見て閉鎖的な部分が見えるとすればその数だけ、海から陸を見た時の閉鎖性もうかがえるって話だよ。地球上には海が多い。水は掴みづらいものでもあるし、ネットが海が広大でもかまわないんだが、そろそろ遊覧船から降りて飛び込んでもらわないと困るので開放ツールであるところのインタネと詩の関係について書くよ。
だいたいがもし仮にインタネが閉鎖的であれば閉鎖的環境を自ら望んでしじんたちは詩を公開しているとか、ありえなーいわけでそのへんから逆算して考えてもインタネは開放的であるわけだけどこれは多少ヒキョーな書き方なのでちょっと積み上げておく。まずネットで詩を公開する方法だが、これは非常に簡単なことだ。HTMLの知識が無くたって現代詩フォーラムやら他のサイトやらあるいはブログでも、紙に書いたものを打ち込んで、あるいはテキストエディタからコピペして、またあるいは直接投稿フォームに書いて投稿なりアップロードなりすればいいんで実に簡単。開放的。テレビショッピングの販売員みたいになってきたな……。ともかく簡単であって、あとは勇気さえあれば。お金もかからない。通信料は別途かかります。開放的。あとペーパーレスで環境にやさしい。地球が泣いて喜ぶ。開放的。開放的開放的とまるで宗教だ、もうやめやめ。じゃあネット上に詩を公開するということはどういうことかと。
まずアップロードされれば、その後消されるまではどんなにんげんでも見ることができる。これは例えば詩集が置いてある本屋が遠いひとでもお金に余裕がなくて本を買えないひとでも海外のひとでも見ることが出来るし見られてしまう。見られるのが嫌ならパスワードでもかけておけばいいんだろうけどじぶんの作品にパスワードをかけてるひとをあんまり見たことがないなあ。そして、いつでも同じ場所に存在しつづける。売り切れることもなければ返品されることもないし、いつも同じアドレスにあり続ける。最後に、それをどこでも見ることが出来る。さっきも書いたが携帯さえあれば路上でも見ることができる。車の運転中……は……やめ……。で、そうされることを望んでネットに作品を公開するわけだよ、こういった一連のプロセスおよび結果が開放的でなくてなんであろうか! と、声を張り上げているつもりで読んでいただきたい。むしろ閉鎖的環境とは家族やご近所の友人に詩を見せてすごいねーoldsoupって名前がイカすよねーって言われてるその状況のことなんじゃないのか。イカすって死語じゃないのか。
そもそも家族や友人に気軽に見せられるか、詩を、と考えるに至って、なおインタネは便利だなと思わざるを得ないが、それもこれも今なお続く詩に対する軽い偏見、よくいわれるところではクサいことを言ったひとに「詩人だねえ」とかいうようなその「詩人」の延長線上のおれたちずっと石ころのダイヤでいようなってそういうことじゃなくて、なんだっけ、まあ、かっこわらいカテゴリーの中に詩がある限りは現実(陸)の方がよっぽど閉鎖的だよと再度申し伝えたい所存でございますが。おれも一回川柳やってるっていったら「なに? センリュー?」とか不思議そうな顔面をされたのであー俳句だよ、俳句と言い直したらばそれからずっと一句詠んでとか本屋に行ったら句集買うのみつを買うのって言われてうぜえのでなかなかヘビーだよ現実世界がワールドが。
最後になりましたけどネット(インタネ)の効能について。今しがた書いたように周りが詩に偏見を持っている環境というのが困るというひとには、周りが詩人ばかりであるとか、あるいはカテゴリー的に詩を求めるひとだとか、そういう環境が一発で整うまたは既に整っている場所としてインターネットはひとつの満足であり希望である。で、そういう環境にさらされると自己満足のためだけでなくいくらかはひとの目に触れることを意識して書くようになる。そういう意識改革が、進歩だか退歩だか知らないけども個人の技量を育むんである。またそういったひとたちにかなり無条件に発表の場所を与えてくれるのがインタネであるわけで、望んでいることがいつでも出来る状況にあるからこそ例えば「詩が書けない」であるとか、そういう障害が生まれてくる。新たな障害を認めてしまうほどにネットは現実世界での障害を取り除いてくれるのであり、それは開放的ということである。であるし、あってほしくもあり、あってくれなければこのネットにいるおれのルンルン気分はなんだということになり、困るので、これからもネットは詩は開放的であってほしいんだが、なんだろう、この伝わらないもどかしさは。恋か。