インターネットの閉鎖性 2
いとう

 前回登場したA氏の話を続ける。月日が経ち、ネットの海辺で呆
然としていたA氏も素潜りなどできるようになった。詩論を交わせ
る知り合いも幾人かできた。様々なサイトを足繁く覗くうちに素晴
らしい作品を書く詩人もみつけた。自分の趣味に合う場所もあり、
真摯な批評を日々行うこともできる(批評の場が形成されにくいの
は確かだが、批評の場自体は検索等で簡単にみつけられる)。そし
て海辺で呆然としていた頃にはわからなかったが、ネット上の詩は
どうやら思っていたよりも多様なようだ。それこそ「詩」とも呼べ
ないレベルのものを垂れ流している場所もあれば、それぞれに詩に
ついて真剣に考えている場所もある。良質な詩をひっそりと置いて
いる人もいる。また、評価されやすい作品の傾向もサイトによって
異なり、多種多様な場が、良くも悪くも一律に並んでいる…。

 ここでA氏の顔が曇る。そうなのだ。この「並列」であることが
やっかいなのだ。インターネットは元来「ネットワーク」の場であ
るため一定の指向性を持ち得ず、すべてが相対的に存在している。
つまり、無数の指標があるが故に統一された指標が存在できないの
だ。それを形成するのは不可能であり、さらに言えば、その形成は
インターネットの死を意味する。ネット上で詩に携わる人間は、詩
誌のようなあらかじめ存在する指標を頼りにするのではなく、自分
自身の内に指標を宿しそれに沿って行動しなければならない。また
さらに、並列であるが故に蓄積が行われない。どんどん新たな人間
が流入してくることも相まって、個々のサイトや人間に進歩はある
ものの、総括的に見れば進歩はないに等しい。何年も同じ地平で堂
々巡りを繰り返し、構造的にそれを打破することができない。

 ネット上での詩に深く関われば関わるほど、紙媒体とは異なった
閉鎖性が見えてくる。A氏をさらに憂鬱にさせるのは、インターネ
ット全体が場として閉じている点である。自分の詩を発表できる。
それに対して多くの人から反応をもらえる。評価もしてもらえる。
交流も盛んだ。しかし、それだけだ。すべての行動がインターネッ
トの中だけで完結してしまうのだ。どれだけ優れた詩を書こうと、
それが詩誌などで評価されることはない。詩集評や同人詩誌評のコ
ーナーはあるが、ネット上の詩はネット上にあるというだけで見向
きもされない。たとえばネット上で詩のアンソロジーを作ろうとい
う声が上がった場合、そこに含まれるのはネット上で発表される詩
のみとなるであろう。逆に紙媒体でアンソロジーが編纂されるとす
れば、そこにネット上で発表された詩が編まれることはまずない。
ネット上の詩の世界がどれだけ広がろうと、それはネットの中だけ
の閉じた世界なのだ。何故このような状況になっているのだろうか。
詩はどこにあっても詩でしかないのに。A氏はネット初心者だった
当初とは別の意味で、海を見つめながら呆然としている。



散文(批評随筆小説等) インターネットの閉鎖性 2 Copyright いとう 2006-08-07 17:10:35
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