水族館
七生

透明な水
水の中にはたくさんの微生物がすんでいるのだと聞いたことがある。
どんなに濾過しても微生物は残ってしまうのだと
一見綺麗な水に見えてもその中には無数の生命が息づいているのだろうか。
たとえば店で売っているたくさんの水のペットボトル、その中にはたくさんの生き物が住んでいてまるで水族館のように並んでいる・・・。
あんな風に単調に並んでいる商品も実はひとつの水族館なのだとしたら、とても素敵なものに思える。
わたしには見えない水族館、水槽だけが目に映る。


クロともグレーともいえないよく見慣れたアスファルトの上を急ぎ足で歩いていた。ぼこぼことした表面は手作りのハンバーグに似ている。
感触も色もにおいも全く違うけれど、アスファルトはハンバーグと少しだけ類似点があるのだ。
少なくともわたしにはある。あのぼこぼことした表面、少し似ている。
その日は買ったばかりの傷ひとつ無い青いミュールを履いていて、足元にだけ少し魔法がかかっているような気分だった。
新しいものを身に着けるとほんの少しだけ魔法がかかる。
でもそれと同時にはやくミュールに傷が付けば良いのにと思う。そうしたらアンティークにほんの少し近づけるから。
だってアンティークにも魔法があるから、でもたいていのものはそうなる前に捨てられてしまうのだけれど。
それにこのミュールがアンティークに成るとしてもその頃にわたしはもう居ない。
ミュールはとても繊細なデザインで、細くて高いヒールと足の甲を申し訳程度に包むスパンコォルたち、スパンコォルは濃い青色から白に近い水色までが魚の鱗の様に整然と並んでいる。
それが光に当たるときらきらと輝いてとても綺麗だ。
夏の日差しはとても強くて、よりいっそう輝かせる。
アスファルトの上にくっきりと濃い影を落とし、その上を青いミュールが踏みつける。
蝉の声は音の壁となって遠くに聞こえる。

何処へ行く当てもないけれど、ただただ急いでみる。
だって青いミュールには急ぎ足が似合う。
魚達がきらめくように早く。
ずっとずっと先まで行かなければいけないのだから

気が付くと随分遠くまで来ていた。
どのくらい?ずっと遠く。その遠く。
ふと顔上げるとガラス張りのショーウインドウに私が写っていた。黒いノースリーブのワンピースに青いミュールが白く光って映っている。
じっと自分を眺めているとなんだか自分ではないものが見つめ返しているような錯覚に陥る。
ほんとうにわたし?
お前はずっと私を付回しているだけではないの?
そうやって醒めた愚かな眼差しで、その青いミュールを踏みつけるように私を踏みつけながら、ずっと付回しているだけなのではないの?

ああ、とてものどが渇いた。沢山歩いたから。
周りを見渡すと少し行った先に自動販売機が見えた。
今度はゆっくりと進む、いっぽ、にほ、さんぽ、じゅうななほ歩いたところで自動販売機の前に着いた。
小銭を一枚ずつ入れる。銀色のものと銅色のものを
迷うことなくペットボトルに入った水を選ぶ。ゴトリと鈍い音がして水族館が落ちてきた。
小さな水族館。
キャップをひねる、どうも硬くて一度では開かない。
もう一度力をこめてひねる・・・ざっっと手の中で滑ってそのままキャップだけを残してペットボトルが落ちていった。
スローモーションのようにゆっくりと
透明な液体を撒き散らしながらミュールの上へ
水が零れ落ちていく。

水族館が閉館になってしまう

水はほんの少し残して殆どこぼれ落ちてしまった。
気が付けば青いミュールもぐっしょりとぬれていた。
鱗がきらきらときらめいている

・・・・・・・

私はミュールを脱ぐとペットボトルへぐいぐいと押込んだ。

水族館、私にも見えた。

周りに鱗がパラパラとこぼれおち、いっそ生臭い世の中になった。遠くから黒いワンピースの女が哂っている。
黒いアスファルトがさらに黒味を増して、影を覆う。じわりじわりと
遠くから聞こえるせみの音は壁となって私を閉じ込める。
剥いだ鱗を口元に運ぶ。ああ、意外に甘い。


散文(批評随筆小説等) 水族館 Copyright 七生 2006-07-31 23:56:33
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