帰らざる海まで
恋月 ぴの

「こんばんは、お久しぶりね」
聞き覚えのある声に振り返ると
おんながひとり乗っている
「今日ぐらい早く帰ってきてね」と
妻にせがまれたのに残業を強いられた
可愛いひとり娘の誕生日だっていうのに
営業会議の資料作りを押し付けられた
おんなは頬に穏やかな微笑を湛えている
このビルの最上階にある事務所には
俺しか残っていなかったはず
着床したエレベーターの扉が開いたとき
籠内の鏡に映ったのは疲れきった俺の姿だけ
「どうしたの、怖い顔なんかして」
このおんな
親しげに話しかけてくる、このおんな
は俺が殺したおんな
派遣社員として俺の会社に入ってきて
俺がちょっかいを出したおんな
妻と別れてくれとしつこかったので
不倫地獄の瀬戸際で
ふと会話が途切れた車の中で
絞殺してから打ち寄せる波間に投げ捨てた
おんな
長い髪に隠れた細い首を絞めたとき
飛び出しそうな目玉で俺を見つめていた
俺を突き放そうと苦しそうにもがいていた
抗う力を失ったそいつの身体は
想像していたよりもずっと重かった
ひとりでは背負いきれずに
引き摺るようにして断崖から投げ捨てた
俺が殺したおんな
エレベーターは静かに降下しはじめて
「どこへ帰ろうとしているの」
俺が帰るところ
それはおまえのすけべな身体じゃない
俺の欲望を子宮奥深く迎えるようにして
恥ずかしげな嫌らしい音を漏らした
おまえの身体なんかじゃない
もうすぐエレベーターは着くだろう
そして俺は帰る
俺が帰るべきところへ
俺を待っているところへ
氷のように冷たい手が俺の股間を弄りはじめ
エレベーターは静かに降下していった




自由詩 帰らざる海まで Copyright 恋月 ぴの 2006-07-28 06:59:11
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