雨期と雨のある記憶
カワグチタケシ
その通りには、いつも強い西風が吹いていた。強い西風に押されて街路樹の銀杏は傾いていた。バス停で次のバスを待ちながら、僕の身体も通りの向こうがわにある街路樹と同じ角度で傾いていた。傾きながら僕も、強い西風に吹かれていた。強い西風があたたかく湿った大気を運んできた。二〇〇六年の雨期が始まった。
通りの向こうの十一階建てのホテルのベランダに非常梯子を納めたステンレスの箱が見える。非常梯子はいつも降りるためだけに使われる。なぜか。煙はいつも空に向かって上るから。煙から逃れるために、人は非常梯子を下る。僕はバスを待ちながら、十一階建てのホテルが失火するさまをイメージする。
そこに音はない。四階の一室から煙がもれる。客室のカーテンが燃えている。細く開いた窓からのぼる不透明な煙は、煤を伴ってホテルの白い外壁を汚す。窓ガラスが一瞬しなった後、粉々に割れる。ガラスの破片は通りに散乱し、小さな粒が駐車中のワゴンのウインドウにあたる。ガラスを失った窓枠から鮮やかなオレンジ色の炎があがる。
香港一九九七年。雨季。ガイドブックを持たず、啓徳国際空港のイミグレーションでピックアップした一枚の地図をたよりに、ネーザンロードを南下する。昨日から降りやまない雨。ホリディ・インのフロントで五香港ドルの切手を買う。靴も靴下もびしょぬれで重い。旺角駅の地下コンコースに入ってはじめてそのことに気づく。
いつか君から聞いた。窓ガラスをつたって流れる雨が好き。窓ガラスをつたって流れる雨を部屋のなかから眺めるのが好き。早朝の油蔴地のマクドナルドは冷房が効きすぎて、指がかじかんでしまう。油脂の染み出したエッグ・マックマフィンの紙包みをうまく開くことができない。映画で見たのと同じように、窓ガラスをつたって雨粒が流れている。
夜になって雨が小降りになった。スターフェリーの甲板のベンチもしっとりと濡れている。僕の靴は乾きはじめている。ケーブルカーで上るビクトリア・ピーク。隣のオーストラリア人たちが大声で笑っている。百万ドルの夜景っていうけれど、香港ドル? 米ドル? 小さな雨粒がケーブルカーのタイヤを濡らしている。
砂浜に降る雨を見ていた。雨期の明ける前。ひとかげまばらなビーチの灰白色の砂を、大粒の雨が黒く染めていく。雨に音はない。波の音だけが、変に遠くに聞こえている。波のうえにも雨が降っている。波のなかにいる生き物たちも雨を感じることがあるのだろうか。沖の彼方で雲が切れて、ごく細い陽が海に差し込んでいる。
人の手の届かないところにある光。人の手の届かぬ先に飛ぶ灯りを追いかけて。森に分け入る。小さな水の流れに沿って。かすかな雨が降っている。光を運ぶもの。点滅する蛍。きれぎれのかすれた光。流れから飛び立ち。水滴にとまる灯り。すべての光が音をたてずに。存在している。やがて夜が更けて。虫たちは死に近づく。
雨が好き。それがいろんな口実になるから。と、彼女は小さな声で笑う。僕はその声が好きだと思う。好きだと思ってから、彼女の意味を、彼女の口実を探し当て、時間をかけて拾い集める。停滞性の低気圧が列島を蓋っている。ここはアジア。亜熱帯だよ。僕は彼女に言う。そして、その手を握って雨の中へ歩き出す。