感受性くらい自分で磨かなきゃ、とか茨木のり子さんに叱られて、それについて考えてみました。
感受性って、入力される信号に対する感度のことですよね。感受性が高いっていうのは、そのセンサーがとても敏感だということ。たとえば暗闇のセンサーライトの、感度をぐっと上げておく。すると虫が飛ぼうとホコリが舞おうと、その動きに反応して、ライトはコウコウと輝くだろう。ちょっと迷惑な気もするけど。
それを逆手にとって、くすって笑える作品に仕上げたものもあるよね。たとえばSさんの「なんでもポエマーよしこ」シリーズ。あんなふうに、感受性の高さをハートウォームに仕立てていくのは実はひどく難しいと思う。それをスマートにやってのけたとこがすごいですよ。うんうん。
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http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=1168)
人の感受性ってさ。潜在する部分はそんなに変わらないような気もする。ただそれを表出しようとする意欲はだんだん低下していく。世の中ってそういうもの。オトナだから仕方ない。そんなふうにして、表出することをあきらめていく。あるいは忘れようとしている。生きるために。
うまく生きるってことが迎合することと同義であるなら、あんまり自分は上手ではないんだと思う。完全な人生に詩はいらないよ。表出する必要はないし、むしろ不利になる。手の内を明かすわけだから。
入力される信号は無限だ。おそらく。それをすくいとるセンサーの部分が壊れちゃったら、お手上げになる。だけどやっぱり大事なのは、アウトプットの部分、それをどんなふうに提示できるかってこと。
自由詩ってアートフォームは、道化師みたいなものです。日記ですとか、自分のためとか、いろいろ言うけど、でももう、このアートフォームのかたちをとった瞬間、他者への依存、他者への伝達が始まっていく。これはもう、揺るぎないね。ことばの持つ宿命。
他者と、自分。それが人であれ自然であれ、その距離感がわからない。わからないから書いている。さらに、自分の中に巨大なブラックボックスがあって、そこが感じたり表出したりしたがっている。勝手に。
一番の敵は。
おそらく、自分。