詩を書くことと詩を読むこと
刑部憲暁

 詩を書くことと詩を読むこととは違うのだろうか。今、私がやっている「詩を読むこと」は、自分がやってきた「詩を書くこと」とは少し違っている。それはそれで良いことなのか、それともそうではないのだろうか。
 ある体験が私を撃つ。私は一行目を書かされる。すると、言葉が言葉を生む。イメージが連なって、全体が比較的一挙に立ち上がり、私はもたもたとメモを繰り出し繰り出しして、その立ち現れた全体を追いかけようと試みる。「書く」時はたいてい、どんな時もそうだ。時折立ち止まり横道に逸れることがあるのは、全体が私の全身を領している安心感が有ってのことだ。私は書き上げる。恍惚と感情の奔流がその間私を満たしているかもしれない。それらの情感は、詩の全体と不可分のものであるだろう。果たして私の作品は、その全体に重なり合うだろうか、それとも拙く逸れてゆくのだろうか。
 詩を読もうとする時、私は作品の言葉を追う。そのイメージの関連性を追いかける。その道筋は、例えば私が書いている時の、言葉がやって来るその道筋を、正確に、反対に辿り直すことになっているだろうか? 私は言葉を手掛かりにして、詩人の額を撃った体験の方へと、正しい道を辿っているだろうか?
 その保証はない。どの不安や疑念に対しても、それを安心へと導く保証などは何処にもない。確かなのは、一つ、あの恍惚の時がある、ということであり、一つ、誰かが読む、ということだけが、詩人の窓辺を照らし出す唯一の輝きとなる、ということだ。私が信じて良いのはそれらのことだけであろう。
 もう一つ、読んでいる時、私は書くことが出来ない。詩的体験は私の前で閉ざされて、私はその点で完全に、解雇され、見捨てられた、路頭に迷う浮浪者の一人に過ぎない。私は読み続けるだけだ。何の保証もない作業に没頭するだけだ。あの月光は、無私の光だ。だからあれほど優しく詩人を見守るのである。


散文(批評随筆小説等) 詩を書くことと詩を読むこと Copyright 刑部憲暁 2004-02-19 21:02:22
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