アフロ者に告ぐ
ダーザイン

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 気にはなっていたのですが、文学極道の採点やおまんこで忙しくてレスを延ばしていました。窪君の文章を借りて(パクって)、罵倒文を上げておきます。以下激しい罵倒になってしまうが、ただ最初に一言言っておきますが、たくさんの優れた小説や詩を読むのは、天才の事情は知らんが俺のような凡人には効果があったと思うよ。

(冒頭に云って置くが、この文章を不快におもう人はアフロだ。なぜならこれから書く事は、ある人達にとってははっきり云って、ちょんまげ結ってチューリップボトムをはいているような時代錯誤な薄ら馬鹿さ加減を指摘しているものだからだ。面倒だが、特定の個人を名指しするばあいもあります。)

 本当のことを云うと、俺は「詩」を読んで「詩」を書いている奴は土人だと思う。「詩」は大抵の場合、「人様に読んでいただくという発想の無い自己満足な小難しいたわごと」であり、或いは「つまらない身辺雑記」であり、「キモイラッパー」まがいの者までいる。歌謡曲の歌詞レベルの文学体験しか無しで糞みたいなポエムを貼り付けていく奴は確かに困り者だが、今は古代ギリシャ時代でも平安時代でもないんだ。文学芸術も映像芸術メディアに収斂されようとしているし、歌詞も含めて言葉ジャンルからの影響を露骨に出している人間は、俺ははっきり言ってパクリ扱いで良いと思う。詩を書く者が文章修行に詩を読むというのはもっとも安直で怠惰で前時代的なやりくちだ。だいたいお前ら、産まれた時からテレビがあっただろう。情報は第一義的にテキストとして入ってくるのではなくて、映像として入ってくる。ならば、文筆も映像的でなければ現代的だとはいえない。昔の詩人さんたちとは違うんだよ。俺も昔は古典的な文学青年だったが、エヴァとネットの出現以降、先ずはアスキーとして詩を読んでいる。例えば文学極道の採点でも、画像として視界に入ったとたんにその詩の良し悪しを判断できる。無論その後一字一句ちゃんと読むのだがね、最初のアスキーが視界に入った瞬間の印象に間違いがあったことはめったにない。こういう体験を始めてしたのは、ネットで良い詩を探し始めて、animicaさんという人の詩を読んだときだが、(『夜明けの崖』「雷なり晴天なり」とかお勧め)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6565/
作品が視界に入ったとたんに、読まないでも、ああこの人は天才だなとわかった。奇妙な体験だと当初は思ったが、視覚の現象学的に、現代人にとってはいたってあたりまえの事柄なのだろう。

 あらゆる日本芸術の中で、大手を振って「現場の詩人」とか言っているやからはもっとも低レベルでマイナーな連中なんじゃないのかな。「現場」ってのがどこの権力装置だか知らんが、お前らの詩なんか、文学極道に出て来たら入選できない場合があると思うぞ。
 わけのわからないたわごとを書いて、わからないのを読者のせいにするような糞は全員アフロだ。斬新な表現も、ちゃんと読者に何某かの印象が伝わるように書くのが文筆家の筆力だ。
 詩のボクシングとかで下手なお笑い芸人の真似事をしている奴らも全員アフロだ。お前らはヘボ芸人で文人じゃない。

 俺がそう信じるに至るには、幾つかの映画やアニメや漫画を見るだけでじゅうぶんだった。無論、ワイヤードメディアでも活字メディアでも様々な「詩」に触れ、更に膨大な小説を読んできた。言葉のデッサン力はやはり偉大な筆力を持つ小説家(糞J文学・日記小説じゃない)の偉業の数々を読んできたことから身に付いた部分が大きいだろうが、ずっと現代性を体現してきた映画や、今日本で現代性の先端を担っている傑作漫画やアニメに拮抗して、己の文学の言葉でも現代性を担おうとするのならば、映像を言語化する筆力を獲得せねばお話にならないんだ。もう現代性を担っていない、イマジネーション禁止の日記小説=純文学や活字詩雑誌の老害たちの身辺雑記詩なんて読んでいても足しにならんよ。芥川賞や中也賞よりも、漫画誌アフタヌーンの四季賞の方が本来的に芸術的・文学的だ。つーか、芥○賞とか中○賞とかってゴミ溜めだろう。イマジネーションの欠片もないサラリーマンや女子供のつまらん日記のようなものを文学と呼ぶのはやめてもらいたい。

 「詩」を読んで満足している人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか? 少なくとも、ありきたりの身辺雑記詩や、身内以外誰も読まない現代詩の中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?

 まさしく、この日本で、ごく普通に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、映画に「新しい芸術表現」のありようを見つけずに、過去の遺物としか言いようのないジジイどもの糞みたいな詩を読んで、そのジジイに媚びへつらって詩の書き方を習うような屑は予め時代錯誤なので全員頭髪をアフロにしろ。そう云う人は、文学史や古文書の研究家にでもなれば良い。鮎川読んでいますか? 田村読んでいますか? 入沢読んでいますか? 佐々木読んでいますか? 谷川読んでいますか? 生き残っているアフロは皆糞みたいな日記としか言いようがない最低のポエムを書いている。こういう奴らが詩人の見本としてメディアに出たり、偉そうに発言したりするのだから嫌悪感をもよおして吐き気がするわけだ。断じて言うが、こんな奴らは現代詩人じゃない。詩人だと名乗って欲しくすらない。その存在が権威であるのなら、その存在そのものが害悪で邪魔なので可及的速やかに隠居してまともなものを書く詩人に席を譲って欲しい。そんな所で権威のおこぼれに預かろうとする奴らも全員アフロだ。ところで、ねじめとか、谷川さんとかは、最初から一度も詩人だと認識したことがないんだよ、俺は。俺の中では最初から糞ポエム、ゴミの見本だった。

 詩を読んでいれば詩を書ける、などと思っている人は明らかに文学芸術を馬鹿にしている。現代性を持った文学はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。タルコフスキーは見たのか? アンゲロプロスは見たのか? ベンダースは? ワイダは? ヘルツォークは? キエロスタミは? エリセは? クローネンバーグは? 佐々木昭一郎は? 
 漫画家、遠藤浩輝の「カラスと少女とヤクザ」を読んで、こんな小説が書けたら! と、魂が震えるほどの感動を味わいつつも、なんで俺が書いたんじゃないんだと、悔し涙を流さなかったのか?
 漫画家、弐瓶勉の「BLAME!」を読んで、こんな詩が書けたら、、書けるわけねえ!と、敗北感を味わいながらも挑戦してきた経験はないのか?
 そもそもお前が現代人であるのならば、新世紀の聖典である「serial experiments lain」や「TEXHNOLYZE」は見たのか?
 アルジャジーラからフォックスやワイヤードニュースまで、メディアはまんべんなく見ろよ。

無学な奴はのこのこ出てくんな。ニヤニヤ


散文(批評随筆小説等) アフロ者に告ぐ Copyright ダーザイン 2006-05-10 15:57:20
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