云ってはならないことを云ってしまおう
窪ワタル

(冒頭に云って置きますが、この文章を不快におもう人は正常です。なぜならこれから書く事は、ある人達にとってははっきり云って誹謗中傷と取られることを覚悟しているからです。ただし、勿論、特定の個人に向けて書いたものでは決してありません。)

本当のことを云うと、俺は「詩」を読まないヤツに「詩」を書いているフリをして欲しくない。「詩」に対して偏見や誤解を持っているヤツはいても自由だけれども、読みもしないで「難しいだの」「嘘くさい」だの「キモイ」だの云って欲しくないのは勿論だが、何よりおかしいとおもうのは、自身が「詩」と称するもの、或いは「ポエム」と称するものを書いているくせに「詩」を読まないなんて、俺にはまるで理解できない。

「詩」は確かに、そこかしこで見かけるキャッチコピーや、小説や、エッセイや、マンガや、歌詞の言葉に比べれば一見分りにくいものに見えるのだろうし、現に分らないモノもある。しかし、この「分りやすさ」くらい怪しいものはないのだ。「分る」とはそんなに簡単なことではない。「これはりんごです」と提示されて“ああ、そうりんごだね”と言うようなものだ。しかし、それで本当にりんごの何が分ったというのだろう?
「青い空」と云うけれど、あなたが見ている空は、本当に青いのだろうか?或いは「空」を見て、それが「青い」という言葉だけで言い尽くせるとするならば、あなたは空を見てはいないのではないか?上っ面だけを眺めて「分ったつもり」「知ったつもり」になってはいないだろうか?

詩人はその「分ったつもり」「知ったつもり」の物事を捉えなおし、普段何気なくに過している「空」や「りんご」にもう一度立ち止まり、捉えなおそうとする者のことなのだ。
空を見上げて、隣の人と同じ空に、隣の人とは違うものを発見する時「詩」は生まれるのだとおもう。
その「空」は、もうありきたりな「青い空」という言葉では表し得ない、云わば「新しい空」なのだ。その「新しい空」に相応しい言葉を捜そうとするのが、詩作と言う試みなのだと俺は信じている。

俺がそう信じるに至るまでには、結構時間が必要だった。様々な「詩」に触れ、自分も見てきたはずのもの、何気なく見過してきたものに立ち止まって言葉にしようと試み、それにある姿として成功したのではないかと思える作品に触れた時、俺は感動し、自分もそんな「新しい空」を見つけたいとおもって詩を書いてきたのだとおもう。

「詩」を読まない人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか?少なくとも、ありきたりのキャッチコピーや、歌詞や、ポエムの中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?
確かに、この日本で、ごく平凡に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、ファッションに「新しい空」を見つけた人もいるだろう。そう云う人は、音楽家や、デザイナーや、漫画家をやればいいのであって、それはたとえ、生業として成り立たなかったとしても、やりたければそれをやればいいのだとおもうのだ。

「自分は、楽器も弾けないし、絵もかけないから、詩が一番誰にでも出来そうだったから書き始めた。」と云う人に時折出会う。きっかけとしてはそれもいいだろう。しかし、そのまま“詩なんて誰でも書ける”“簡単に自分を表現できる”とおもったままの人は「詩」なんて書いていないと俺は本気でおもっている。そして、そういう人は明らかに「詩」を馬鹿にしている。「詩」はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。

音楽家や、マンガ家や、デザイナーがそうであるように、それを生業としている人は勿論、趣味やライフワークとしてやっている人がそうであるように「詩」もそんなに簡単なものではなく、技術もいれば、訓練も必要なのである。
「詩」を書くための訓練として、何が一番大事かと云えば、他でもない「詩」を読むことなのだ。小説や、流行歌の歌詞の影響を受ける場合もそりゃあるだろう。デザインや、洋服に触発されて書けることもあるだろう。しかしながら、ピアニストがいくら美しいデザインを見て深く影響されたとしても、ピアノのレッスンを受けなければ弾けるようにはならなかったように、詩人も「詩」を読まなければ書けるようにはならないとおもうのだ。

俺の経験から云えば「詩」を書く力は「詩」を読む力にある程度、否、かなり比例するといっていいい。その形式や、用法、積み上げられた技術を学び、自分が表したいものを言葉に出来る技術を身に付けようとする努力なしに「詩」を書くことは出来ない。偶然に何篇か書けても、それが書けたと気が付くには、詩を書く上での自分なりの原則のようながなくてはならないはずだ。それを見つけ出すには「詩」を読む以外にないと云える。

「詩」が誰にでも出来る簡単なものとおもっている人が、これまたよく云うのが「自分の気持や思いを書きたい。」と云う事だが、この「気持」や「思い」とは一体何なのか、それを「詩」と云うものに昇華させるとどういうものが出来るのかと云うある目安を、その人は「詩」も読まずに一体何から判断するというのだろう?

確かに「詩」には「これが正解」というような明確な形式や方法があるわけではないだろう。それゆえ、そうした原則や、目安のようなものがなくても、書けた気にはなるのだ。
しかし、書けた気になるのと、書けることとの間には、大きな隔たりがあるのだ。
それは、先に云った「空」や「りんご」と同じく「分ったつもり」「知ったつもり」になっていると云うことではあるまいか?そう云う風に「詩のようなもの」を書いて満足している人に限って「詩」を読まずに、自分が書いている、或いは書こうとしている「詩」(或いは、あえて「ポエム」といってもいい)を書いている諸先輩方の詩業にまるで関心を払わないどころか、ある場合には食わず嫌いしているのである。

そんなに「詩」が嫌いなら読まなくていい!その代わり書くな!
そんなヤツが書いているものは「詩」ではない!

と、詩人は口にしないだけで本当は思っているのだ。少なくとも俺はそうおもっている。





散文(批評随筆小説等) 云ってはならないことを云ってしまおう Copyright 窪ワタル 2006-05-04 01:48:33
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