設計図なしで人間をつくる
カンチェルスキス





 
 目からミルクを出して見せるのは電撃ネットワークの誰かだ。名前は知らん。おれの場合、ミルクを出す箇所はせいぜい鼻ぐらいなものだ。あのツんとくる衝撃は嫌なものだねえ。最近は出してない。ミルクは毎日飲んでる。牛乳瓶ではさすがに飲まないね。紙パックに入ってるやつ。おれはね、あの開封の仕方を知ったのは成人してからなんだ。それまではあのT字の付け根に無理やり指を突っ込んで開けてた。無理やりするからボロボロになってね、コップに注いでんだけど、まるで下唇が切れて血が出たみたいにコップのまわりにミルクがこぼれるんだ。おかしいな、と思っても、どうしてだろうとは思わなかった。その頃、おれはダースベイダーと夢中で戦ってたから。サイドメニューで鞍馬天狗とも戦ってた。ミルクがテーブルにこぼれたらティッシュかなんかで拭けばいいし、ゴミ捨て場の段ボールの中に入ってる子猫を拾ってきて飲ませればいい。子猫がいなけりゃ深皿にシリアル盛って大騒ぎしてる右大臣を呼んでくればいい。右大臣がいなけりゃ左大臣だ。本当は、紙パックのところにちゃんと開封の仕方が記されてたんだ。気づいたのは、ちょうどお昼時で、製本工場の近くの小さな中華料理屋で製本マンに混じって中華丼を食べてるときだった。高いところに設置されたテレビでNHKの連続テレビ小説をやってた。主人公が牛乳パックを開けるシーンがあって、あのT字の両端を少し押し込んでから手前に引き寄せると、きれいに口を開いたのだ。何ていうタイトルのドラマだったかはいまだに思い出せないでいる。そのことで自分を責めた。もしかするとおれがあのとき見たシーンは幻だったのだろうか。おれはあのとき死んでたのだろうか。‥‥‥‥今だってそんなに生きてるという感じはしないけど‥‥‥‥。確かにおれはあのとき牛乳パックの開封の仕方に関して、性の目覚めにも似た目覚めを感じた。だからこそ、おれはあれ以来、テーブルにミルクをこぼすこともなくなったし、右大臣や左大臣を呼ぶ必要もなくなったことで経済的にも楽になったのだ。もちろん、割り箸を割りすぎて利き腕が筋肉痛になったときを除いて。そう、おれはあのとき、セイウチみたいな店のオヤジに頼んで‥‥‥‥牛乳パックを‥‥‥‥持ってきてもらって‥‥‥‥テーブルに置いて‥‥‥‥食い終えた中華丼の隣に‥‥‥‥それから‥‥‥‥店の明かりを消してもらって‥‥‥‥おれは肺いっぱいに空気を吸い込んで‥‥‥そう‥‥‥もう無理だと思うぐらいまで‥‥‥‥限界に近づくにつれおれは頭に血がのぼった‥‥‥誰かを殺してしまいそうな狂気さえあったそれは‥‥‥おれは自分が生きてると思い‥‥‥これ以前の自分は屍だったということに気づいた‥‥‥おれは生きていた!正真正銘に‥‥‥誰が否定しようともそれは確かな事実だった‥‥‥‥おれはぐっとためた息を‥‥‥‥‥誰かの息の根を止めるみたいにして‥‥一気に吐き出した‥‥‥‥バースデーケーキのロウソクが一瞬にして消えた‥‥‥‥何回目かの誕生日、おれは‥‥‥もうこれからは泣いたりなんかしないと心に誓った‥‥‥。
 あの日の中華料理屋でおれがやったことと言えば、中華丼を食い、自分の鼻のメンチョウを何かの拍子で触ってしまい、その衝撃で唸るように声を出し、セットの中華スープを飲み干し、連続テレビ小説をちらっと見て、ひどく無愛想な占い婆あみたいな老婆に金を払って外に出たことだけだ。その後、製本工場のラインに無表情で突っ立ったったけ。
 ある日、水道の蛇口をひねると、ミルクが出てきたらきっと困る。とくにミルク嫌いにはたまらんだろう。でも、おれが思うに、ワカメが出てくるよりはマシだと思う。ワカメより利尻コンブとか出てくるようになればもうダシを取らなくて済む。直で吸い物や煮物や鍋料理を堪能できる。無闇にグルメな塾講師の夫を持つ主婦にとっては大助かりだ。しかし、何日寝ればワカメ水道が利尻コンブ水道になるというんだ。そんな日が待ち遠しいが、来たら来たらでどうでもよくなってしまうはずだ。通販で買った浄水器も役に立たないことに気づいてしまうのだ。
「ねえ、あなた、これ使っても、どうしても『ダシ』が出てしまうのよ。いったいどうしたらいいの?」
 妻が悩む。
「オレは、そういうの好きだね」
 夫は悩まない。
 そして、口論の末に仲直りし、もしかするとそのときのあれでベイビーを授かったりするかもしれない。産湯はもちろんダシ使用だ。




 透明のコップにミルクを注ぐ。10万人の大観衆が注目している。









 


散文(批評随筆小説等) 設計図なしで人間をつくる Copyright カンチェルスキス 2004-02-12 16:41:17
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