批評とは何か(ツギハギ)
ポロリ

【導入】
 三島由紀夫は文章読本の中で批評について語る。
 まず、オスカー・ワイルドの「芸術家としての批評家」を読めという。次に、評論の文章の困難は、日本語における論理性の希薄さと批評の対象の脆弱さにあるという。そして、ポール・ヴァレリーを、冷静な知性と優雅な社交人との文体における統合を果たした、近代の批評家で最も見事な評論の文章を書いた人として褒め称える。その理由はフランス語の論理性の高さとフランス文化の終焉という批評の対象であるという。また、小林秀雄・中村光夫を挙げて、その論理的展開を誉める。特に、中村については、批評家には文学的感受性が必要だが、それが論理以上には主張していないことを特に誉める。つまり、三島は、批評については、一にも二にも論理的展開は必要だと語っているわけである。
 ところで、三島の本を読んだことがある方ならば、彼の描写の緻密さや新鮮さは語る必要が無いだろう。これらは文学的感受性の方に入るものと私は思うのである(小林秀雄の評論を見て、これが論理的展開に入るのかもしれないと疑問を抱いたのではあるが)。その三島おして論理的展開の重要性をかたらしむる批評とはいかなるものであろう。

【演繹的考察】
 まず、広辞苑で言葉の意味を見てみましょう.

批評=物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること
評価=善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること
論ずる=事理を説明する.また、物事の是非をただす.
説明=(1)事柄の内容や意味をよくわかるようにときあかすこと (2)記述が事実の確認にとどまるのに対して、事物が「なぜかくあるか」の根拠を示すもの

 ここまでは問題ないですよね.では、訳してみます.

「批評」とは、物事の善悪・美醜・是非などについて、価値を判断し定めて、その内容や意味をよくわかるようにときあかす、または、なぜそのように判断したかの根拠を示すもの

 以上から、批評の最低限のルールがわかりますね(詳しくは後述).上記の「物事」に「詩」を代入すると、「詩の批評」の最低限のルールになります.

 次に、他の言葉も見てみましょう.

紹介=情報を伝えること.未知の事物を広く知らせること
解説=よくわかるように物事を分析して説明すること

 つまり、「批評」と「紹介」「解説」の区別は、特定の価値による選別の有無であるといえます.さらに詳しく言うと、「批評」の必要条件は、対象物の評価(命題)とその説明・説得行為(証明)です.命題がなければ、「紹介」「解説」であり、証明も無ければ、「感想」です.

感想=心に浮かんだ思い

(証明が無く命題だけならば、説得力の無い評価(=批評)といえます.私が反論可能性が無いというのはこの状態です.)


【ネット上の詩の批評に関する帰納的考察】

目次
1 各論として
2 対象別分析
3 私見
4 結論

1 今回は対人関係を考えた「当り障りのなさ」という観点から考えたいと思います.前回は「批評」という言葉から演繹的に考えましたが、今回は個々の批評から帰納的に考えたいと思います.ただ、私は権威無き者に特定攻撃を加えるほど愚かになりたくないので、具体例があげられません.その点、ご容赦ください.

2 まず、批評の内容を分類してみたいと思います.
(1) 文章についてのチェック
ァ 技術的指摘
ex 食べれる → 食べられる
ィ 表現内容的指摘
ex 濡れた老犬のような姿 → 悲哀漂う姿が云々
(2) 内容についてのチェック
 感想
 ex 全体から生の瑞々しさが感じられる
(3) 構造についてのチェック
 ァ 全体
 ex 権力関係的考察
 ィ 文章関連
 ex 韻

3 個々の分類に該当する記述の生成および環境などの考察
(1) 最も多いものは、表現内容的指摘です.ここが詩の中で最も大切と考えている方もいるらしく、この点を誉めておけば、問題は発生しないようです.内容と直接に関係せず、対人関係も壊れないので、当り障りがないといえます.
 しかし、内容と直接に関係がないという点が重要です.これだけ評されても、読み手に詩全体を評価し示したことにはなりません.この手段のみで批評として成立するには、全体と如何に繋がっているか.それがどのように影響するのか.なぜそう言えるのか.という三段階の手続を踏む必要があると考えます.
(2) 技術的指摘はたまに見受けられます.たんなる添削行為としてしか書かれていないようです.正確であれば、経験則、文法法則、慣習といった裏づけがあるので(反論可能性があり)、納得するより仕方ありません.客観的評価であるので、対人関係をそれほど崩さず、かつ、批判としての体裁もあるため、いちおう当り障りは無いといえるのではないでしょうか.
 ただ、内容がその記述により混同がある(わかりにくくなる)としても、その混交を指摘しない限りは、批評になりえません.
(3) 内容についてのチェックはたんなる感想のみにとどまっています.内容についてのチェックには、文章全体の構造と密接に関連するところであるため、もっともその作品の意義が明確になるところであると考えます.
 その意義は、作品そのものの形式的革新かもしれませんし、文中にあるテーゼであるかもしれません.前者である場合には、既存のルールと当該作品のルールの差異を説明する必要があります.後者の場合は、作品全体がテーゼにリアリティーや確実性を与える場合も、多様に言い換えている場合も、その他の場合もあるでしょう.しかし、なぜ意義があるのか、価値序列と関係的に説明する必要があります.
 しかし、これらのことはなされていません.そこには二つの障害があるためです.
 1つは、自己の能力と密接に関わります.作品を分析し秩序立てて再構成できているか.つまり、作品をとらえきれているか、読み間違えていないか、価値序列にコンセンサスがあるか、価値序列へのあてはめが正確かという危惧です.
 もう1つは、その作業によって、作者や他の読者に不満を与えないかという危惧です.
 この作業は、非常に時間も労力もかかり、危惧も伴い、得るものも少ないので、当り障り大有りです.合理的経済人ならば、この手段は排除します.
 したがって、内容のチェックは、作業のいずれかを省く、感想にとどまります.
(4) 作品全体の構造のチェックは、内容の分析行為です.しかし、批評とするには、価値序列へのあてはめという作業が必要です.
 非常に手間のかかる作業ですが、チェックまでで終われば、作者に不満を与えることはあまりないと思います.なぜなら、多くの人はそれが何を意味するか気が付かないからです.そして、あてはめに自由が残されている結果、テーゼが不明確になるためです.
 よって、対人関係を考えれば、あてはめの作業を省き、当り障りの無いものに仕上げることにインセンティブがあります.
(5) 文章関連の構造のチェックは、すべての文章について作業すれば、作品全体の構造のチェックとなります.しかし、ほとんどが2・3文の関係性にとどまります.この程度であると、表現内容的指摘と差異は無くなります.
(6) 以上から、内容については雰囲気を求められているのであって社会的意義などは求められていないこと、文章について表現力と規則性が求められていること、がわかります.
 つまり、ネット上にある(日本のといってもいいのかもしれませんが)詩とは、言葉遊び以上のものは求められていないということがいえるのではないでしょうか.無難に言い換えれば、(反論可能性の無い)感性が詩の世界を支配しているといえるでしょう.

4 意義無いものにも価値が生まれるのが現代ですから、言い換えれば社会的価値が無くとも個人の感情マネージメントになれば消費は促進されるのであるから(むしろ経済こそが最も重い価値と考えれば「必要な無駄の創出」が最も必要といえるのでしょうが)、詩に存在価値はあるといえます.
 しかし、詩の社会的価値(意義)を考えるならば、このような無意味な循環作業は、意義あるものに変化することが望ましいように思います.


【波及効果という視点による考察】

目次
1 波及効果という視点
2 前提
3 私見
4 ある自由論的進歩主義者の考え

1 今回は批評の詩の成形に対する波及効果という視点から考える.
 この点に関して、そもそもネット上の詩の批評には波及効果などないとの反論も考えられる.しかし、各詩のコンテストの規模の拡大から少なからず効果は認められる.また、モバイル携帯からのアクセスの容易化、詩の形式の形骸化などの環境の変化に伴う、ネット詩の規模の拡大からも、効果は、PCの演算処理能力の如く増すものと考えられる.

2 
(1) まず、詩というものの生成過程を考えてみたい.
 単純化すれば、【想像→構成→実現→想像→…】であろう.
 これに対する批評の関わり合いは、直接的には、【実現→想像】に対応することになるが、批評の内容として、A:内容に関する評、B:技術に関する評、は、間接的に、Aは【実現→想像→構成】にBは【構成→実現】に対応することになる.
(2) 次に、批評の内容として、Aは感覚的なもので、Bが主流であることは「一読者としての意見」で述べた.
(3) 以上から、評を受け入れ、その限りで向上しようとすると、【実現→想像→構成】間では感覚的変化を、【構成→実現】間では多様な変化が生じることになる.つまり、価値的な変化は批評との関係では見られないことになるのではないかと思うのである.

3 ここからは、まさに個人の価値観と詩の可能性観に関わるものである.その点は留意して読んでいただきたい.
(1) イラク戦争がおこり、私は多様な表現物を見た.映画、TV、小説、コラム、論文、議論、広告、音楽、象徴的行為などである.しかし、これらとの相対で詩とはなんと弱いものであろう.詩人ですら、詩での表現以上に論文等での表現を選好する.詩という媒体は、それほど価値観念へのアクセスが困難なものだろうか.
 いや、そうではないだろう.私のあるいは日本人の詩を読む力、詩を解する力、詩を書く力が矮小なのである.
(2) もちろん、批評の手段は多様であってよい.むしろそれは望ましい.しかし、現状はあまりに偏りすぎてはいないだろうか.子供に箸の持ち方を躾るわけではないのである.一方的に言い放った独善的な言葉をいったい誰が納得するだろう.「開かれた議論の場」をもたない領域は万人には認められない.感性だけではあらゆる意味において限界がある.
 そして、それらの言は、受け入れた者たちあるいは受け入れはしないが他のインセンティブから留まる者によって、上述した効果を導くのである.より閉ざされた領域の創出という効果を.言い換えれば、価値的な論証と全く結びつかない、ただ、感情的なだけの山を.(*1)
(3) 他者の言を批判・非難することは簡単である.私のこの文章からも理解できるだろう.価値序列を変えて、その[ひずみ]をつけばよいからである.そして、相対的価値を許容する現代は、その価値序列を自由に変更できるのである.したがって、ある特定のテーゼの優劣はその説得力のみが担保するのである.
 これを批評にもどして考えると、哀しい(純主観)現実がある.批評には、積極評価(誉める)と消極評価(けなす)がある.しかし、多くは後者である.[ひずみ]が出ればけなせるし、[ひずみ]を作るのは簡単だからである.逆に、誉めることは困難である.万人にわかりやすいものであれば、誉めることはできるが、それは陳腐である.万人のコンセンサスのうえにのっているからである.

4 ネット上に散見される独善的な消極評価および批評として成立していないものは「無意味な連鎖」の延命装置である.無意味な連鎖とは「一読者の意見」で述べた感情的レトリックのみに躍起になる行為の総体である.これは何も生まない.一人の天才、あるいはメシアを待つだけのものである.我ら凡夫に明日はない.
 批評は積極評価にこそ価値がある.なぜなら積極評価は価値序列の創造とそれへの作品のあてはめという論証を内包するため、テーゼとしての意義も、説得力も必要とされるからである.そして、それは読者(潜在的詩作者)の更なる価値の策定という糧となりうるのである.
 したがって、これをしていない評者は批評から逃げているように、私には見える.
 評者には、レッサーイービル(より悪くない作品)の選択という消極評価より、評者としてのプライドをかけた積極評価(これは素晴らしい)でのぞんでほしい(*2).
 それが、「無意味な連鎖」を断ち切る手段なのだから.

*1:納得しなくても影響を受けることはありうる.例:インペリアリズム
*2:もちろん程度に差はある.しかし、評者が特定の詩を積極的に評価せざるをえないのであれば、その優位性を語るべきである.その優位性を語れば、価値序列とそれへのあてはめは表現されるはずだからである.


【現代批評理論をひとかじり】
0 以下に綴る議論などは、原書ならびに引用書を確認していません。なので、「〜ということらしい」を各自頭の中で、適宜、繰り返し、挿入してください。

1 やはり何事も基本は抑えなければならない。詩において基本とは何かである。これに明確に答えているのが、アリストテレスの「詩学」である(ここね。ここで「らしい」を挿入ってな具合に、よろしく)。
 【物語】の章において、人はなぜ物語を読むかという問に答えるために、論者は、「詩学」を引用するのであるが、ここには詩についての通底した命題があると思う。それは、1つに、リズム・反復行為は「喜び」となるということ。そして、今1つに、学ぶという行為は「喜び」となるということである。
 しかし、ここで疑問が浮かぶ。学ぶという行為は、知識を得るものである。現存する知識は有限である。そして、私達は今日の経済学の発展から効用の逓減ということを知り、それにより、合理的に特定行為を止めるということを知っている。そうであれば、学ぶという行為(ここではとりわけ詩を読むことを前提としたい。)にも、効用(=「喜び」)は逓減する結果、終焉を迎えることは必然であると言えないのかと疑問になるのである。

2 これについての解答と思わしき叙述は、ジャック・デリダの考察である(あるいはマラルメ)。
 テクストの空白や、余白や、比喩や、反復や、逸脱や、不連続や、矛盾や、曖昧さ=両義性を、「意味を生み出す力」とみなすことである。(詩人ギルドにおいて、構造様のレビューにおけるポチットナー様の自動書記(?)の話しは、興味深い)
 【価値】の章において、価値が社会にアプリオリに存在しているのではなく、個人とあるいは社会との総体において存在していることは明らかにされるのであるが、これを、文学の価値(ここでは詩の価値を想起して欲しい)もまた、社会・個人に存在する諸価値に還元可能となる。そうであれば、文学の価値は全て説明可能となりうるはずであるが、芸術論とあいまって、そこには芸術的あるいは文学的価値があるというのが、文化芸術信奉者の一般的な見解である。
 そして、文学的価値とは、先にあげた「意味を生み出す力」ではないかと、私は考えるのである。
 そこで、元に戻って考えると、このような「意味を生み出す力」を知覚することが、学ぶこと=「喜び」となっているのではないであろうか。

3 「意味を生み出す力」は、自律的に意味を生み出すために、個別的な限界はあるかもしれないが、全体的に限界は存在せず(つまり、読み手の知識の限界と現存する知識の限界の差の部分を常に知覚させるように振舞うため)、そのため読み手の効用の逓減を抑える、ないしは効用を強化するのである。
 ここで、私達は二分されるだろう。つまり、詩とは虚偽の生産の媒体だからである。これを無意味であると考えれば詩から撤退するであろうし、現代の空虚を自覚している者であれば永遠の遊戯にふけることのできる素晴らしい媒体であるとさらに詩にはまることになるであろう。

4 以下は私事である。
 さて、私はどうしたものか。ゆくべきかゆかざるべきか。である。
 しかし、ゆきても死ぬことはなく。ゆかざることはいつでもできるので、ここでは、ゆくことを前提に話を進める。
 前述したように、詩の本質と価値は、テクストの空白・余白・比喩・反復・逸脱・不連続・矛盾・両義性(すなわちレトリック)にある。
 これらを除いた、価値を詩に見ようとするならば、別に詩でなくてもよいのである。むしろ意味内容のはっきりわかる論文等が望ましいのである。その意味で、私の前稿「?詩の領域における世界観」は間違っている。
 だが、また逆に、詩に詩の本質的価値を除いた価値を見出しても悪いわけではない。
 望むべきは、両価値が相乗効果的に詩に現れていることであろう。
 そのような観点から、今後、詩を見てゆきたいと思う。

5 評論・評者についての再考
 「意味を生む力」が、どのような書かれ方をしても、読者に「喜び」を与えることにならないことは明白である。ここには一定のルールがある。それは、いちおうの意味内容が取れることである。しかしそれは純主観的問題である。
 私の好きな詩というものは、完全に意味が取れるものである。しかし、多くの詩人(ネットに限らず)はその限界が私より広い。多少意味が取れなくても、なんとなく、良いとする。
 そこで、この点が最も大きな問題となる。評者の優劣は、いちおうの意味内容が取れる能力が、多数者の同意の極大値に近いかどうか、にあるのである。この点に、詩の世界と一般世界との限界があり、これが打破されない限り日本における詩の社会的価値は向上しないものと思われる。
 私はこの状況を歓迎しない。そして、この限界を打破する必要があり、それは一般世界を詩の世界に引き込むもしくはその調和点を模索することにあると思うのだが、それは「優位的評者」の語る評を持ってしてはなせず、説得的な「評」自体がその効果を生み出すと考えるのである。

 詩の価値を客観的に見抜くことが、評者の能力であり、その優劣は、ある資格があるかどうかで決定するという一般的な考えがある。
 その資格とは、(1)文学的感受性の高さ(2)読解力の高さ(3)読書経験の豊富さ(4)公平性、である。
 しかし、今日では、これら全ては虚構に満ちていることは明らかなのである。
 その証明のために、以下に、スタンリー・フィッシュの引用するトマス・クーンの言葉を引用する(またかと思う方、ごめんね。でも、絶対くると思ってたでしょ。)。はじめに結論を書いておくが、評者・評論が絶対的に正しくないゆえに、説得力・説得行為が必要なのである。

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 クーンは科学的研究のオーソドックスなモデルを疑問視するために、まず、その性格を確認することからはじめる。オーソドックスなモデルでは、ここの事実がまず客観的方法で集められ、それから自然という絵の中に埋め込まれる。そして、対象付きの実験というコンテクストの中で、自然それ自体が、この絵の出来栄えを確証したり拒絶したりする。このモデルにおいては、科学は「累積プロセス」であり、新しい発見があるたびに「科学者の世界を構成するものにさらにひとつの項目が加わる」。このような世界の形態――科学者の専門活動の形態――は、より大きな自然界にすでにある形態(事実と構造)によって決定される。つまり、科学者の仕事とは、自然によって拘束され、導かれるものとされる。
 この物語をクーンはパラダイム概念の導入によって疑問に付す。パラダイムとは、研究に際しての枠組みとなる暗黙の前提や信念のことであり、事実を観察することからもたらされたものではなく、むしろ観察できる事実とは何かを予め決めてしまう前提のことである。したがって、異なるパラダイムの内部で得られた観察結果が対立するとき、原則に基づいて(つまりレトリックによることなく)、相克を調停できる方法はない。互いに対立する記述を事実に照合して吟味するわけにはいかない。というのも、何をもって事実とするかが、まさに問題となっているからだ。一方の側が引き合いに出す事実は、もう一方の側によって、誤謬と見られるだろう。この意味するところとは、科学は、科学の記述を自然という独立した判断の基準に委ねてことをすすめるのではないということ。むしろ科学が発展するのは、あるパラダイムの支持者が、別のパラダイムの支持者ですら認めざるをえないようなかたちで、自説を主張できたときである。つまり、科学を動かす「モーター」は、確証となる事実でもなければ、捏造でもなく、説得であるということだ。不一致が生じた場合、「論者はそれぞれ、説得によって、相手を転向させなければならない」。そして一方がそれに成功した場合も、その結果を検証するさらに高次の裁判所は存在しない――「関係者全員の承認よりも高次な基準はない」。「それ以上の基準など」とクーンは問う、「ありえようか」と。

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【結語】
 以上みてきたように、批評の困難性はうなぎのぼりである。しかし、同時にわかることは、重要な点が今も昔も異ならないということである。
 三島由紀夫がポール・ヴァレリーを褒め称えているように、重要なことは、批評の対象と、その論理的展開である。すなわち、評者が、「なにを意図」して、「どう語る」のか、が重要なのである。
 ヴァレリーがフランス文化の終焉を語ったように。


散文(批評随筆小説等) 批評とは何か(ツギハギ) Copyright ポロリ 2004-02-11 03:25:28
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