マトス  (ショートストーリー)
よーかん

「マトスのどちらが好きですか?」
唐突に隣から声をかけられた。
マトス?
僕はコーヒーカップを唇のそばに添えたまま隣の男に視線を向けた。
四十後半、あるいは五十代のくたびれたグレーのスーツを着た男が柔和な瞳で僕を見ている。
「あの?僕ですか?」
無視すりゃよかった、そう思った。
「はい、マとスのどちらがお好きですか?」
禿げ上がった頭を横にわけている。
クロスワードパズルのヒントを友人に聞いているような、校長先生が廊下でたまたま会った生徒に名前を聞いているような、そんな態度だ。
この人なんなんだ。
僕は固まった。
「マ、と、ス、ですか?」
好奇心に負けた。
やめればいいのにそう聞き返していた。
「はい、マとスです。」
「マとス。」
「いえ、まと、すです。」
「あのっ。」
マとスってなんですか、そう聞こうとした僕を男は小さく頷くことでさえぎった。
「ま、と、す。つまり、文字のまとすです。」
「平仮名の。」
「はい。平仮名のまとすです。」
平仮名のまと、す。
コーヒーを一口飲む。
財布の横のタバコを取り出そうとして灰皿がないのに気づいた。
「どうして。まと、す、なんですか?」
男もカップを持ち上げて一口飲んでいる。
「あなたはどちらがお好きなのか気になったのです。」
「私が。」
「はい。あなたがです。」
僕はタバコを取り出して火をつけた。
「かまいません。お吸いになってください。」
男はカップを静かに置いて、背もたれに身を落ち着かせた。
タバコの煙で肺を満たし、天井に向かってゆっくりとはく。
頭をカウンターに近づけて少しの間、目を閉じた。
目を上げて前を見る。
ガラス越しに早朝の駅前交差点が見える。
いつもと変わらない風景。
信号が青になり、歩行者が渡り始めた。
「平仮名のまとすと聞かれても、僕には答えようがありません。」
低い声でそう言いながら、男の瞳を覗きこんでみる。
この人は気がおかしいのかもしれない。
「まとす。それだけでは答えようがない。そうおっしゃるのですね。」
男がどこか嬉しそうにそうにそう答えた。
「はい。いえ、その前になんで僕なんですか。」
コーヒー屋のカウンターで隣に座っているアカの他人に聞く質問じゃないはずだ。
「はい。ミディアムサイズのブレンドコーヒーをください。そうあなたはおっしゃった。私はそんなあなたに、まとすのどちらがお好きなのかお聞きしたくなったのです。」
ミディアムサイズのブレンドコーヒー。
「エムブレンドでも、ブレンドエムサイズでも、ホットでもなく、ミディアムサイズのブレンドコーヒーとあなたは店員につげ、丁寧にくださいと締めくくりました。店員はブレンドコーヒーのエムサイズですねと聞き返し、あなたが頷くと、オーダーを他の店員につげ、値段をあなたに言い、コーヒーを入れた店員がカウンターに置くと、ミディアムサイズのブレンドコーヒーお待たせいたしましたとささやきながら、当たり前のようにスプーンも砂糖もクリームを置かずにあなたに差し出しました。そしてあなたはありがとうございますとおっしゃった。ミディアムサイズのブレンドコーヒーです。その姿を見て、私はあなたにまとすのどちらがお好きかお聞きしたくなったのです。」
そう言うと男はコーヒーを一口飲み、満足気に窓から見える曇り空に視線を移した。
「ちなみに今朝の私はラージサイズのソイラテシュガー抜きです。」
シュガーと言った。
「佐藤さんに砂糖と言うのは気が引けまして。」
店員の名前は佐藤と言うらしい。
「私はそういう無邪気な所がある人間です。」
「・・・はあ。」
男が微笑んでいる。
声が細く裏返ってしまったのが気になったが、そんな事はどうでもいいと思い直した。
「あの、失礼ですけど、どちら様でしょうか。」
僕はなるべくニュートラルな声を選んでそう聞いた。
「はい、ですから、今朝の私はラージサイズのソイラテです。」
「ラージサイズのソイラテさんですか。」
僕は真顔でそう聞いてみた。
「はっはっはっはぁー」
男の奇妙な笑い声に一瞬店内の客が注目して、すぐ元にもどった気配がした。
「いえ、ラージサイズのソイラテは名前ではありません。記号です。つまり、あなたと私の関係を象徴する記号というわけです。」
そう言って可笑しそうに目だけで微笑むと、一度カップを僕にあげてから、男はまた、ゆっくりとソイラテを口に含んだ。


「あの。」
僕が質問する番だと思う。
「その。」
「何か?」
男はソイラテにスプーンを入れてユルユルと動かしている。
「タバコはお吸いになりますか?」
「はい。」
「ちょっと灰皿を取ってきます。」
僕は財布をつかんで、指にタバコを挟んだまま席をはなれた。
「あのままスプーンを見ていたら催眠術にでもかけられていたかもしれない。」
「んなわきゃない。」
僕は頭の中で会話をすることで気を落ち着けようとした。
カバンはスツールの背中にぶら下げたままだ。
店員をさりげなく見た。
佐藤。
確かにそう書いてある。
目が合うと、馴染みの客にするように、佐藤氏はゆっくりと僕に会釈をした。
とりつくろうように灰皿を見せて苦笑いしてみる。
かしこまりました、そんな表情を佐藤氏は作り、フワリと入り口の方に目を移した。
「おまたせしました。」
「いえ。それよりお時間は大丈夫ですか。」
時間は実は十分にある。
僕は毎朝このコーヒー屋で二十分、時間を潰すのを日課にしている。
満員電車に乗ってオフィスに向かう前に、自分だけの時間をゆっくりと持つ、そんなささやかな儀式めいたことを僕はこの数週間ここで続けている。
「あの今、何時でしょうか。」
「はい。時計は六時二十二分を指しています。」
たぶん合っている。
「少しだけなら。」
「そうですか安心いたしました。ほんの少しのお時間だけで十分です。」
まとす、どちらが好きかを答えれば開放してくれるのだろうか。
「宗教とか・・・。」
「いえ。そんな大それた事では。そうですね、確かに好奇心は私の宗教みたいなものではありますが。」
そう言うと男はまたさっきのはっはっはっはぁーを二度繰り返した。
パチンコの整理券待ちのために駅前に来たらしき三人の若者グループがそれに呼応するようにどっと馬鹿笑いをしたが、すぐに店内は静かになった。
大きなノッポのフル時計のジャズ風ピアノアレンジが空々しく店内に流れている。
客がこの変人に興味をしめしている気配はもうない。
男のやや太めの眉毛の下の瞳は心なしか茶色がかって見える。
「まと、す、ですか・・・。」
金色の腕時計。
指輪はしていない。
「はい。」
男はスツールの上で僕の方に体を少し回転させて、カウンターに両肘を置き、両手にアゴを軽く乗せた。
深爪まで切ってある爪がピンク色に光っている。
綺麗に剃りあげられたアゴとモミアゲが緑色にくすんでいる。
サラリーマン。
営業。
保険セールス。
教師。
ピンとこない。
心理学者。
子供じみた推理か。
「どうかいたしましたか?」
男が両手をヒザに移して僕の顔を覗きこんでいる。
僕はあきらめて、一度大きくため息をついた。
「まと、す、ですね。まとす。」
頭がそれ以上前に進めない。
「そうです。」
男が目を閉じて少し首をかしげる。
「何かヒントが必要かしらん。」
確かに、今、男はかすかな声でそうつぶやいた。


空調のせいでタバコの煙が男の顔に流れてしまう。
僕は男への警戒心を解かぬよう、あえてそのままの姿勢で考えているふりを続けた。
両手にアゴを乗せなおして僕を見ているようだ。
尻がスツールに突き出されていて気持ち悪い。
すが好きですと答えればそれだけでいいのか。
まもすも好きじゃありません、だが好きです、そう攻撃してみようか。
コーヒーを飲む。
タバコを吸って、ガラスに煙を細く吐く。
男は何も言わずにただ僕を見ている。
もしかしたらホモなのかもしれない。
まが好きですか、そうですか、まが好きな人に悪い人はいません。
すですか、すはいいですね、すが好きな人は感性が鋭い人です。
交差点の横の街灯の明かりがついたままだ。
鳩が二羽、街灯にとまって暖をとっている。
「朝のこの時間帯は私も好きです。」
男がソイラテを口に含んで外を眺めた。
「あのビルの上のアンテナにカラスがいつもとまっています。」
僕がそう言うと、男は興味深そうに頷いた。
「いつも同じカラスなのか、ここで時々考えるんです。」
男がまたうなずく。
「動物学者なら、簡単にその答えをくれそうだけど。僕にはなんだかそれではつまらなくて、なんだろう、そのカラスがあそこにいて、あそこからいつも何かを眺めていて、つまり、同じカラスだといいなと思っているんです。」
「はい。」
「あの二羽の鳩は違います。」
僕はタバコを挟んだ手の小指で鳩をしめした。
「たまに三羽で、たまに二羽。一羽の時もあります。雨の日にはいないと思われるかもしれませんが、雨の日もいる時があります。」
「なるほど。」
「カラスが旋回して、鳩が道路に舞い降りて、車と人が通りすぎて、その繰り返しだけど、どれもけっして交わることはありません。」
男が窓に体を向けなおした。
「つまり、あのカラスは。ていうか、あのカラスが同じカラスなのかなんていうのはどうでもいいことで、僕はいつもあのカラスを見ることが嬉しいなんてセンチメンタルな気分を味わうためにここに来ているわけでもなくて、カラスがあそこにいつもとまっているなんていうのは今ただ思いついたことで、それから、その、確かにカラスはあのアンテナによく止まっているのだけれど、ここでは、あそこにカラスがとまっているなんて会話をする相手と来たことなんてないものですから。つまり。」
「つまり?」
「僕はまが好きかもしれません。」
「はい?」
「まです。」
「まがお好きですか。」
「はい。」
「そうですか。」
「すよりまです。」
男の手が伸びて僕のタバコとライターを掴む。
ケースを振りタバコを一本取り出した。
ライターをカチリと鳴らして火を確認する。
「実は。」
男がタバコに火を灯す。
「一本、あなたから拝借したかった、ただそれだけでして。」
煙を吐いてそう言うと、男はクスリと微笑んだ。



おわり。















散文(批評随筆小説等) マトス  (ショートストーリー) Copyright よーかん 2006-04-22 21:54:50
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