銀色の夏に生まれて
窪ワタル

私はいつから「詩」を書くようになったのだろう?書き始めたのは10歳の初夏のこと、テレビで紹介されていた谷川俊太郎氏のソネットに触発され、その作品が収められた文庫本の「谷川俊太郎詩集」を買ったのがきっかけである。だが、その頃私が書いていたのは
いわゆる「ポエム」であり、初めて購読した詩誌も「詩とメルヘン」だった。

「詩とメルヘン」は「ポエム」と絵と物語の雑誌であった。もっとも、10歳の子どもには、それが「ポエム」なのか「現代詩」なのかはまるで分らなかったし「詩とメルヘン」の隣にいつも一冊ずつ並べられていた「現代詩手帖」や「ユリイカ」は到底子どもの読める代物ではなかったのだ。後年になって、分らない、難しいとおもうようなものでも、それはそれとして読む気になれるまで、私は「詩とメルヘン」の結構熱心な読者であった。

中学生にもなると「詩」にも、色々なタイプのものがあって、「現代詩」とか「近代詩」とかがあるのだと知ったが、この頃も「ポエム」と「現代詩」の違いはよく分らなかった。ただ、自分の書いているものに納得が行かず、漠然と憧れていた詩人は、中原中也や、萩原朔太郎や、高村光太郎のような「近代詩」の詩人であった。もっとも、田舎の本屋や、学校のオンボロ図書室には、そうした有名な「近代詩人」の詩集か、谷川俊太郎氏か、あの、銀色夏生氏の詩集ぐらいしか置いていなかった。図書室には少しは現代詩の詩集もあったが、教科書に作品が載っているような詩人達の詩集が主であった。
田村隆一氏だとか、長田弘氏、川崎洋氏、石垣りん氏などのものを読んだ記憶がある程度である。その頃の私は、詩人と云ったら、生きている人では谷川俊太郎氏のことであり、後はもう亡くなってしまった近代詩人のことであった。

誤解のないように云っておくが、私は、その頃も、今も、教科書に載っていた詩人の作品が嫌いなわけではない。「詩」に馴染みのない中学生にとっては、教科書にある作品は、大変読み易く、心に残っている作品も多い。私が、茨木のり子氏や、新川和江氏を知ったのは教科書からであったし、他の科目と比較すればだが、国語は好きな方でもあった。丁度、教育実習で来ていた国語教諭の卵さんに、授業中に詩のノートを取り上げられたこともあったが、その卵さんが結構美人であったせいもあって、その方の授業は面白く受けた記憶がある。取り上げられたノートを返して貰いに行った折、卵さんは「銀色夏生よりは面白いわね、他の先生の授業の時は書かないようにね。」と、要するにお墨付きを頂いたくらいである。卵さんも詩を書いている方なのであった。卵さんが大学へ帰る前の日に挨拶に伺ったら「詩を書くなら黒田三郎の「詩の作り方」はお勧めよ、それと、あなたにはまだ早いかもしれないけど、一度は入沢康夫の「詩の構造についての覚え書き」も読んでみたらどうかしら?きっと驚くから。」と教えてくださった。後にこの二冊は、私にとって大切な本となる。

卵さんの予言通り、入沢康夫氏の著作は、私を大変驚かせるのだが、その話は長くなるので割愛することにするが、教えて下さった卵さんに未だに深く感謝している。

姉が、銀色夏生氏の熱烈な愛読者で、当時発刊されていた詩集は殆ど持っていたせいで、私も何冊か捲ってみたのが、これが「ポエム」から脱皮する糸口になった。
はっきり云って、私は銀色夏生氏の作品が大嫌いだった。こんなもんは金を出して読む価値はないとさえおもっていた。思春期の私は、当時から、田舎の小さな書店でも手に入るほど売れていた彼女の作品を、全身で嫌悪していたのだった。

「近代詩」の有名詩人達の「詩」は、確かに難解なものが多く、十分に読むことは出来なかったけれど、銀色夏生氏のそれより刺激的でカッコイイものだったのだ。しかし、にもかかわらず、当時の自身の作風は、そうした憧れの近代詩人の作品よりも、明らかに銀色夏生氏のものに近いことにを自覚していた。私にとっては、自作を銀色夏生氏と比較しても、卵さんが仰って下さったほどには、離れていない未熟なものだとおもっていたのだ。それはもう不甲斐なく、情けなくおもわれて、何とかこのぼんやりとしたただ甘ったるいだけの気持悪い世界から抜け出さなければとの強い危機意識が、私を「ポエム」から「詩」の世界へと向かわせることになったのである。

「ポエム」から脱皮するにはどうすればいいか?答えは意外と直ぐに閃いた。「真似ること」である。自分がかくありたいとおもう詩人の作品をテキストにして書けばいいと私は気がついたのであった。

私が最初に真似たのは高村光太郎や、金子光晴だった。中原中也や、萩原朔太郎にも、漠然と憧れたし、宮沢賢治も好きだったが、中也や朔太郎のシュールな世界は、少し難解過ぎて真似ることが出来なかったし、宮沢賢治の真似やすい作品は、自分が既に書いていた「ポエム」とあまり変わらないようにおもわれたのだ。思春期のガキは生意気なもの知らずだったのである。

高校に入った年、幸運にも、母校のあった町に、当時としてはかなり立派な図書館が新設され、それまで読みたくても読めなかった「現代詩文庫」や、様々な詩誌を読めるようになった。私は、その図書館に足しげく通い。分らないながらも、様々な作品に当たることになった。宝探しのように、どうにか読めるものを見つけては、気に入ったものや、心に引っ掛かったものを読み返すと云う風に「詩」に触れて行くのは、疲れもしたが、それなりに愉しい遊びでもあった。ほどなく、私は、何とか、自分が書きたいのは「現代詩」だと自覚することが出来たのだった。もう「詩とメルヘン」の熱心な読者ではなくなり、代わりに、何とか読める作品を手がかりに、図書館にあった詩誌を読み比べ、一番読み易い上に、他と比べればはるかに安価な「詩学」を購読することになった。勿論、田舎の書店には「詩学」など置いていない。図書館で定期購読の用紙を盗み出して記入し、翌日、母校の最寄にあった郵便局から申し込みをし、そこに私書箱を持って、到着日に取りに行くのだった。17歳の少年だった私にとっては、詩を書いていると知られることはとにかく恥ずかしいことだった。ほんの数人の友人を除いて、家族にさえ、知られぬためには、そんな面倒な手段を取るのも当然なことのようにおもっていたのである。

今、私は銀色夏生氏に感謝している。彼女がいなければ、私は今でも、あのぼんやりとした、ただ甘ったるいだけの「ポエム」の世界に囚われたままだったかも知れないからだ。銀色夏生氏から離れたい一心から、私は、私の書きたい「詩」の原型を模索することが出来たし、少しでもましな「詩」を書くために、不十分ながら学びもしたのである。思春期に彼女の作品に感じた違和感と反発こそ、私のエネルギーだった。今でも、書店や図書館で彼女の詩集をよく見かけるけれど、相変わらず売れているらしいことを、密かに嬉しくおもっている。

私は、もう昔ほど「ポエム」が嫌いではない。「ポエム」にも、良いとおもえる作品もあることを知ったし、現代詩でも、あまりに新奇なもの、難解過ぎると感じるものを、私は好まないのだとも気がついている。

「詩」は、自由なのだ。本当は「ポエム」も「現代詩」も優劣などない。詩人も、そして読者も、自分が書きたいものに向き合い、読みたいものを愉しめばいいのである。

「詩」を書くことは、私にとって、決して簡単でもないし、お手軽でも楽しくもない。ただ、書きたいと云う欲望と、この自由な文芸の魔力に魅せられてしまったものとして、私は書き続けて行くだろう。たとえ振り向いてくれなくても、もう嫌いになったりはしない。


散文(批評随筆小説等) 銀色の夏に生まれて Copyright 窪ワタル 2006-04-19 22:48:01
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