観覧車が燃えてるように見えたのは夕陽のせいだった。
カンチェルスキス





 カレーのことを考えると涙が止まらなくなる、という人がいてもおかしくない世の中だ。なんで泣くんだろう。泣く理由なんてどこにもあるかいや。泣きたいから泣くんじゃいと知り合いの岸和田出身のMは話す。カレーのことを考えてたから涙を流したんだろうとおれは思っていた。彼は映画『タイタニック』をビデオ鑑賞した後だった。どうやらカレーのことを考えて泣いたわけではなさそうだ。『タイタニック』見たことある?おれはないんだ。『湖の遊覧船の先っぽで両腕を十字架みたいに伸ばした女をさえない男が後ろから抱きしめるの構図』は何度も見たことがある。おれはそのとき、へえとうなった。今まで考えたこともない知識を手に入れた気分だった。そんな構図がこの世に存在してたのか。おれも明日からやってみようと思ったのだが、『湖の遊覧船の先っぽで両腕を十字架みたいに伸ばした女』が見つからなかった。街のどこを探り見て回ってもそんな女はいなかった。たいてい両腕を胴体にくっつけるか離すかしてみんな歩いてる。ぶらぶらさせてる、と言うんかな、ここらの言葉じゃ。ぶらぶらさせて、まるでなくても構わないの、両腕、みたいな顔をして歩いてる。ハンドバック持ってたり、マクドナルドの袋を持ってたり、ふとん叩きを持ってたり、如意棒を持ってたり、カルーセル麻紀の失われた睾丸を持ってたり、持つものと持たぬ者に分かれてはいたけど、みんな持つべきものを持ってるような気がおれはしてた。疎外感と言うか、除け者にされた感じで、おれは悲しかった。望まれてなさが強烈に身にしみた。でも、どうにかあの構図をものにしたい。あまり長くなると目が乾いてくるから省略して、『十女』とだけ書くけど、そいつをものにしたいと思った。後ろから抱きしめてやりたいと思った。で、おれが思うのは、おれにも資格は十分にあるってことだ。あの構図をものにしてる野郎どもはみんなさえないやつらだった。おれだってさえないやつだったのだ。その証拠を挙げるときりがないから一つだけ言っとくが、おれはいまだにトイレットペーパ―の芯の取り替え方がわからない。なあ、いいだろう、これで十分なはずだ。どうしようか日も暮れてきた。自転車の後ろカゴにでっかいスイカを着の身着のまま載せて、婆あが蛇行運転を繰り返してた。寒くもあった。寒気団だ。風も強い。今日中にどうしてもあの構図を、デカダンスな構図をものにしたい。そうだ、長崎だ!とおれは閃いた。あのナントカ公園には銅像があって、確か両腕を伸ばしてなかったか?伸ばしてなかった。それに、あれはどう見ても男だ。その気はおれにはないし、確かあれはすげえでかかったような気がする。おれの身長があの銅像と同じぐらいになるには二百万年は待たなければならなかった。男性の平均寿命は七十歳ぐらいだと聞いてる。おれは現在、六十九歳。例えば、毎日ミルクと煮干しを欠かさなかったとしても、百九十万年ぐらいはかかるとおれには思えた。長崎に行くのは諦めた。それに長崎はいつも雨だ。おれは濡れるのが嫌いだ。濡れるのが嫌いだから、シャワーも浴びない。風呂も入らない。あんなものは浴びたつもり、入ったつもりでいればなくたって構わない類のもんだ。シーラカンスを釣り上げて写真におさまろうとしてる女ならどうか。あれは確かに両腕を伸ばしてると言えるんじゃないか。でもおれがいるのはショッピングセンターの時計台の下だ。どうしようもなく寒い。おれは虚ろになってきた。こんな構図世の中になかったらええのに、とおれは考えた。こんな構図なかったらおれもこんなに悩むことはなかったのに。『タイタニック』なんて映画がなかったらええのに、タイタニックなんて沈まなきゃよかったのに、とおれは半ば自爆自棄になりかけた頃、おれは気づいた。はっきりとほとんど厳格的に悟ったのだった。今のところ、あの構図をものにしなくてもおれは暮らしていける、ということだった。暮らせるってことがどれほど素晴らしいことか、わかるやつのほとんどが戦争経験者だ。おれは戦争を経験してはいないが、六十九歳だ。それ
ぐらい生きれば何が人生で重要かわかってくるもんだろ。おれはそう思う。急に視界が晴れてきた。重さのない重さが体に覆いかぶさってたようだが、それも取り払われた。吐息がこれほど純白に見えたのは初めてのことだ。体の中から澱が消えた。構図なんてどうでもよかった。あれはタチの悪いデマみたいなもんだ。ソーセージは魚肉でなきゃならない、みたいな。よっしゃ、気分も晴れたし、どぎつい激辛カレーでも食べたろか、とおれは思い、カレーショップに行って普通の辛さのチキンカレーを食べると出ていき、部屋に戻ってクソをした。クソをしたらケツを拭かなきゃならない。拭いてる途中でトイレットペーパーがなくなったのは話の都合だ。おれはトイレットペーパーを取り替えてくれる人を常勤として雇っていた。プライバシーに関わることなので、名前は伏して、その人の左手の握力だけ記そう。性別は隠す。八十キロ。その人にいつも頼んであるんだが、今日はサボりの日らしかった。寒い日はサボる癖があった。注意すると、「アンジェリーナ・ジョリー」しか言わなくなる。完璧なる一点張りだ。アンジェリーナ・ジョリーって誰だよ。おれにはわからなかった。うまく髭を剃れるやつなのか、そうでないやつなのかすらわからなかった。原始的に手で拭いてみようかとも考えた。誰にも見られてないんだと自分に言い聞かせた。この世の中には誰にも見られてないからということを言い訳にして自分自身を許してることはたくさんある。やっちゃいなよ。でも、おれはやらなかった。三段式のトイレットペーパー棚がちゃんとあったのだ。そこからトイレットペーパーを一つ取り出し、片手にくるくると巻きつけて、でん部を拭いた。あいつがサボったときはいつもこうしていたのだ。終わったら、水に流し、トイレットペーパーを窓枠に置いて、トイレから出た。トイレットペーパーの芯の取り替え方はわからないままだ。だから、追い払ったとはいえ、思い出したときにはいつでもあの構図をものにする資格は、おれには十分残されていたのだった。




 オチのある話は、落語家に任す。彼らのオチに対する意識は並外れて高い。だから例えば、あなたがオチへの希求心を燃やすとき、彼らは必ずその想いに応えてくれるだろう。それが彼らの道義的責任であり、存在意義であり、クレアラシルソープなのだ。彼らが座布団に座ったときからあなたの願いはすでに叶えられているのだ。さあ、落語を聞きなさい。どれを聞けばいいのかわからなかったら、あの人に聞いてくれ。きっとあの人はウイットに富んだトークであなたの問いにわかりやすく答えてくれるだろう。


 あの人とはいったい誰だ。






散文(批評随筆小説等) 観覧車が燃えてるように見えたのは夕陽のせいだった。 Copyright カンチェルスキス 2004-02-10 15:32:22
notebook Home 戻る