子どもの「純真さ」について
アシタバ

 「子どもは純真なものだ」という常套句があります。その場合たいていはそれに引き換えての「大人の純真でないさま」を揶揄する目的があったりもするのだろうとは思いますが、その非難されるべき「大人の純真でないさま」とは何でしょう。それは「大人」の一般社会における振る舞い、時に卑劣だったり、臆病であったり、厚顔だったりすることの、総体を指してのことなのでしょうか?それらの「純真」とはとてもいえない数々の性癖ないしは所業は、社会のなかで成長してくるにつれて、後天的に獲得あるいは付与されたものと見做すべきだという含意を、そこに見るべきでしょうか?
 そのような姿勢はある一つの姿勢への移行を容易なものたらしめます。すなわち、「社会が悪い」同じことですが「悪いのは社会だ(私は悪くない)」という転嫁です。このとき不思議なのですが、「純真でない」はずの大人として語っているものと、「子どもの純真さ」とが相同的、類比的に結ばれていることに気付くわけです。そしてそれを媒介するのは、ある種の回顧、漠然とした郷愁といったものでもあるわけです。かつて「純真な子ども」であったものとして彼は語っているわけです。

 しかし、一方で私たちは、子どもが「純真」でないさまを見たり聞いたりして知っています。彼らは日常的に嘘をつくし、それを隠したりする「卑劣さ」も持ち合わせています。子どもは「純真」なのではなくて、ただ可憐なのです。
 その可憐な子ども時代によく耳にしたものに「嘘は泥棒のはじまり」という訓戒がありますが(出典は不明)、問題なのは嘘をつくことそのものより、嘘をつくことがほとんどの場合、嘘を隠すことになるという一事ではないでしょうか。嘘はすすんでするにせよ、強要されてするにせよ、自白した場合は許されるものです。しかし、それが思わぬ形で露顕するといった場合、謝罪だけではすまないことになってくるのです。新聞やテレビなどに散見する刑事事件などにおける事態の推移は、およそこの通りでしょうし、先頃の「偽メール問題」がメディアを騒がせる大問題に発展したのも、この「自白」の不在によることに主な要因があったと記憶します。ついでなので言っておきますが、永田議員がまず武部幹事長(ないしはその息子)を詰問し、「自白」させようと迫ったやりかたには大きな陥穽があったのです。武部幹事長やその近傍の自民党議員の側に、隠さねばならないようなある疚しい事例があったかどうかはともかく、その「不純さ」にたいして永田議員自らはあくまで「純真」であるかのごとく振舞いました。そこには本質的に「嘘」が介在することを、彼は忘れていたわけです。

 ここで「自白」しておくと、私が子どもの「純真さ」を持ち出したりしたことには、初めからあるネライがありました。それはここでは、詩作におけるある種の態度との類比で考えられていたのです。つまり、詩という言表行為(というよりむしろ記述)を本然的に純真なものとし、その他の言表行為(記述)を「純真でないもの」と見做す態度です。それらの詩作の主な基調はノスタルジーであり、またそうならざるを得ません。たかだか子どもの現実から数年、あるいは数十年かもしれませんが隔たっただけで、その現実を黙殺して何か甘美な不在郷のことでも語るみたいに、言外の倍音を調律し「汚れちまった悲しみ」の歌を歌うといった趣きがある気がします。
 ここでノスタルジーが批判されるべきなのは、嘘を糊塗するデマゴーグとして機能するからです。嘘をつくことにはある種の快感がともなうかも知れませんが、それを糊塗することは、自他共に不毛な疚しさへと陥らせます。ニーチェの「奴隷の言葉」はこの意味で理解されねばなりません。ニーチェも詩人としてそのようなノスタルジーに似た何物かを詠ったことでもあるでしょうが、そのノスタルジーは決定的に退路を絶たれたもののノスタルジー、前方に向かって超出し続けなくてはならないような回帰、でもあったわけです。この前方に向かって超出していくノスタルジーの好例として、私はティラノザウルス氏の『帰宅』という詩に書かれた
 
 坂が
 約束みたいに
 静止しながら
 上にのびていく


 のびていく

 のびていく

 のびていく
 
 という箇所での「のびていく」の三回の反復のことを思わずにはいられません。私は言葉によって坂が「のびていく」さまが、言葉そのものが「のびていく」過程において跡付けられていることに、驚き、かつ畏れたのでした。

 私は必ずしもノスタルジーという心性そのものを否定するつもりはありませんでした。ただあまりにも容易に「純真さ(無垢)」への回帰をまるで<現実に>可能なものとしてでもあるように書き連ねてしまうことに対する、私にわだかまった不満ないしは疑念について書いてきたつもりです。一方に無垢な言葉としての詩があり、他方に不純な言葉としての小説なり、その他の記述がある、とするのは、それこそ反動的なデマゴーグに過ぎないでしょう。もし、小説が不純であるとするなら(フィクションという呼称に表されているように)、詩もまた不純なものとして向き合うべきなのです。そして詩の真価は純粋か不純かというようなところで問われるべきでなく、詩に固有の言葉の運動を解放することなのではないかという、あたりまえの提言をさせていただくに留めたいと思います。


散文(批評随筆小説等) 子どもの「純真さ」について Copyright アシタバ 2006-04-04 14:33:17
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