忘却についての、ささやかな省察 (1)
竜一郎

 〈忘却〉について考える。それは、歴史を見つめることから始まる。そこで問われるのは、歴史とは何か、ということでもある。歴史とは死と生の連続である、と私は考えている。戦争の結果も、科学的発展の足跡も、偉人たちの栄誉や栄光も、すべて生と死とに呑み込まれたものたちの慟哭の「こだま」である。歴史、その「こだま」は、ある本のなかにハッキリと見られるものだ。そして、写真に、絵画に、音楽に、建築物に、その他のあらゆる形あるそれらに顕れている。では、なぜ、世界の歩みは、彼らの「こだま」は、私たちがわからないくらいに、すっかり忘却されてしまうのだろうか。

 『笑いと忘却の書』の「第六章 天使たち」のうちで、青年はタミナに語る。「忘却を忘れればいいんですよ」と。忘却したことを覚えていれば、想起できるだろう。しかし、忘れてしまえば、そこに何かがあったことすら判らなくなってしまったのならば、どうだろうか。ひとは、たやすく記憶を見失ってしまう。幼子は親に問う、「それは、本当に〈そこ〉に、あったの?」

 忘却。幼年時代において、私は何を考えていたか。一昨日のニュースで、何の事件が報じられていたか。一年前に、彼に何を言ったか。「いったい、何を、これまでにしてきたのか?」 忘れたのはなぜか。あのひとが、あのこが死んだからか。撮ったはずの写真が失せたからか。「とにかく、何かがなくなったせいで、私は忘れてしまった!」 なぜなくなるのか。ふとしたことで、大火は起こる。本は燃える。単純な鉄則だ。たいていの木は燃える。木から作られた本も然り。写真も燃える。地震が起きて、破け、壊れる。洪水の発生によって、水に浸され、使い物にならなくなるものもあるだろう。日に曝され、ボロボロに朽ちるものもある。冗談のような自然の事象によって、消失してしまう多くのものがある。

 それでも、私たち人の手で〈忘却〉したものもある。「焚書坑儒」という言葉を、ご存知だろうか。中国で思想統制が行われ、儒教が厳しく弾圧された時代があった。彼らの経典は炎に食われ、儒者は土に食われた。つまり、本が焼かれ、儒者は生きながら土に埋められた。「焚書坑儒」とは、それを表す言葉である。時間を経て、儒教は有効でなくなってきた。しかし、焚書は今でもなくなってはいない。それは「焚書」が、人々(群衆)を忘却に導く、手っ取り早い手段であるからだ。

 その「焚書」とは少し異なるが、近似する例が著された部分を、『笑いと忘却の書』の第一部「失われた手紙」から引用しよう。ミラン・クンデラの祖国、チェコの話であると思われる。ここには、ある政治の局面が描き出されている。

 「一九四八年、共産党指導者クレメント・ゴットワルトは、プラハのバロック様式の宮殿のバルコニーに立ち、旧市街の広場に集まった数十万の市民に向かって演説した。それはボヘミアの歴史の一大転回点、千年に一、二度あるかないかの運命的な瞬間だった。
 ゴットワルトは同志たちに付き添われていたが、彼の脇の、ほんの近くにクレメンティスがいた。雪が降っていて寒かったのに、ゴットワルトは無帽だった。細かな配慮の持ち主だったクレメンティスは、自分が被っていたトック帽を取って、ゴットワルトの頭の上に載せてやった。党の情宣部(情報宣伝部)は、毛皮のトック帽を被り同志たちに取り巻かれて民衆に語りかける、バルコニーのゴットワルトの写真を何千枚も焼き増した。共産主義のボヘミアの歴史は、このバルコニーのうえではじまったのだと。どの子供もポスターや教科書、あるいは美術館などで見て、その写真を知っていた。
 その四年後、クレメンティスは反逆罪で告発され、絞首刑にされた。情宣部はただちに彼を〈歴史〉から、そして当然、あらゆる写真から抹殺してしまった。それ以来、ゴットワルトはひとりでバルコニーにいる。クレメンティスがいたところには、宮殿の空虚な壁しかない。クレメンティスのものとして残っているのはただ、ゴットワルトの頭のうえに戴っかった、毛皮のトック帽だけになってしまった。」

 当時に生きていた人々の記憶には、周囲にいたクレメンティスたちの姿は、想像の中であっても存在している。しかし、消去されるまえの写真を知らないものは、情宣部が手を加えた方を真実だと認識するだろう。これもまた、忘却の一つの形態である。そうで〈あるべき〉ものが隠されて、そうで〈ある〉ものに置き換えられてしまう。疑いの余地はない。視覚的なメディアは、絶対の信頼を置きうるものだから。隠蔽は巧妙になり、事実は無根であっても、証明がなされるだろう。

 写真には枠がある。もしも、そこに収まらない部分に重要な箇所があったとしたら、どうだろうか。たとえば、銃を持った人間が撮影された写真があるとして、その銃で殺したものを撮っていないのはなぜなのか、など、疑問に応える箇所は映されていないかもしれない。始めから隠すこともできるのである。そこに映っている〈べき〉ものに想いを馳せ、私たちは思い出すべきだ。そして、歴史の奥底に隠され、忘却されながらも、今でも響き続けている「こだま」に耳を傾けなくてはならない。


参考・引用文献:
『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ:著 西永良成:訳 (集英社)


散文(批評随筆小説等) 忘却についての、ささやかな省察 (1) Copyright 竜一郎 2006-03-31 11:46:22
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